「睨む」ということを通じて他者との交渉と捉えることで現代の不安について宗教学者の山折哲雄氏が日経新聞、日曜版に連載している「危機と日本人」を紹介・引用いたします。

以下、山折哲雄氏の「危機と日本人」(15)より

ハッタと相手を睨(にら)みつける、という言葉が死語になって久しい。
上下の唇を真一文字に引きしめ、まなじりを決して睨みつける振舞いが、もうどこにもみられない。
歌舞伎の世界では、初代の市川団十郎が編みだしたといわれる「不動の見得(みえ)」という荒事の所作が知られているが、あれは憤怒の姿をあらわす不動明王の、周囲を圧して睨みつける表情をモデルにしたものだった。
市川家はもともと成田山の不動尊と深い関係にあり、屋号を成田屋というのもそこからきている。

相撲の土俵でも、立ち合い前の両力士が両手両腕を下ろし、面をあげてじっと相手を睨みつける。
その作法が緊張感を高める上でも、様式美としての相撲の迫力を演出する上でも欠かせない。
このあいだの本場所でも、優勝こそのがしてしまったけれども、横綱白鵬の睨みの表情はいつも通り野性味を帯びて輝いていた。
それだからこそであろう、敗れたときの破顔一笑が見ているものの心をなごませる。

だがその睨みの表情は、われわれの日常生活のなかからはもう失われてしまっているのではないだろうか。
周囲を見廻すと、いつごろからか手のこんだ詐欺事件が続発するようになっている。
結婚詐欺、振り込め詐欺をはじめとして世間を騒がせていることは周知の事実だ。
それが殺害事件に発展したり、児童の誘拐や虐待などの事件とダブって報道されるようになった。
マスメディアが流す過大な情報とも入り混じって、われわれの不安感をいっそう増大させている。

その不安の根源をさぐっていくと、結局、
人を信用するな
他人を信用するな
に行き着くのではないだろうか。

かつてわれわれは、人を見たら泥棒と思え、と親からよくきかされたものだった。
それがいつのまにか、人を見たら誘拐魔と思え、殺人鬼と思え、という時代に変わってしまった。
もっとも、人を見たら泥棒と思え、というかつての親たちのいい分には冗談半分の口吻(こうふん)が漂っていたが、今日の親たちの心配には、そんな心の余裕はもはやみられない。

そうであるから、今や
人を信用せよ
他人を信じよ
という声は、残念ながらどこからもきこえてはこない。
家庭の親たちの口からもきこえてこない。
学校の教師たちも、うっかりそれを言葉にすることができない。
宗教家さえ確信をもって声に出していうことができなくなっているのではないか。

ジレンマである。
つらいジレンマというほかはない。
しかし、人を信ずるか、信じないか、というジレンマにみちた問いの前にあって、かねて私には胸の内に刻みつけていた情景があった。
昔の村の子どもたちがよくやっていた行動である。
その村に、見知らぬ子どもが訪ねてきたときの、一種のあいさつの行動である。
それが「睨む」ということだった。

そう言ったのが民俗学者の柳田国男だった。
村のガキ大将のようなのが、みたことのない者が村に闖入(ちんにゅう)しようとしているという通報をうけて、村境におっとり刀でとんでいく。
その外部からやってきた者の前に立ちはだかって、ハッタと睨みつける。
汝(なんじ)はいったい何者か、という疑いの眼をいっぱいに見開いて、相手を凝視する。
闖入者の方も、何を負けじと、まなじりを決して睨み返す。
その気迫の勝負に合格すれば、村への通行を許す。
合格しなければ、ただちに追い返す。
一種の睨み合いの格闘技である。
しかし闖入者の方が思わず破顔一笑し、まいったといえば、そこで睨み合いの勝負が終わり、新たに交渉がはじまる。

他者にたいする知恵にみちたつき合い方といっていいだろう。
異邦人にたいする根元的なあいさつの仕方ということもできる。
そのあいさつの方式がやがて子どもたちのあいだでゲーム化し、睨めっこ遊びになったのだ――そのようにさきの柳田国男は言っているのである。
つまりこの睨む作法は、もともとは大人の社会におけるあいさつのやり方だった。
それが子どもの世界に伝染し、ゲーム化して、「睨めっこ遊び」へと変化していったのだ。

端然と睨む。
威厳のある態度で相手の眼を見すえる。
それが「睨む」という精神の格闘技になっていった。
その睨む精神が今日の大人からも子どもの世界からも失われて久しいのである。
人を信ずるか、信じないか、のジレンマの前に立つとき、われわれがまずもって考えておかなければならない重大な課題ではないかと思うのである。

上記は日経新聞、日曜版に連載されている山折哲雄氏の「危機と日本人」(15)より引用いたしました。

「睨む」ということは同じ土俵に立っての勝負と考えれば、ある意味でコミュニケーションの手段でもあったわけで睨み睨み返すことでお互いの交渉がはじまるということでもあったと思います、ただ現在われわれが感じる不安というものは「睨み合う」対象の枠外のもの得体の知れない不安を感じるのではないでしょうか。

得体が知れないものに対しては「信用しない」ということになるように思いますが、どうなんでしょうね。

今日は以上です。