渋沢栄一が幕府のパリ万国博覧会への随行団の一員となって渡欧することになりますが今回は、この随行団について島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から見ていきます。

以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より

随行は総勢二〇名余であり、全権公使兼駐仏公使・向山隼人正(むこうやまはやとのしょう)一履、御傅(おもり)役に山高石見守信雄(帰国後は大蔵省に出仕し、その後長らく日本の博物館行政に携わる)、それに渡欧二度目の杉浦愛蔵が随行した(杉浦は帰国後に民部省に出仕し、駅逓制正を務めるなどして郵便制度や富岡製糸場の建設に貢献した)。

渋沢は庶務・会計係を担当する「御勘定役、陸軍附調役」であった。
翻訳方として箕作(みつくり)貞一郎(麟祥)が加わったが、帰国後、新政府にあってフランス法典等を翻訳し、日本の成文法の起草に大きく貢献した。
医師としては高松凌雲が随行し、帰国後戊辰戦争の続く箱館(函館)で両軍兵士を救護し、赤十字活動の端緒を作った。

また補佐役として栗本鋤雲(じょうん)も随行し、その後向山に代わって第二代の駐仏公使として滞在した。
栗本は維新後、新政府からの誘いを断り、『郵便報知新聞』の主筆として言論界に身を置いた。
博覧会への出品は瑞穂屋清水卯三郎が担当した(卯三郎はこの機会を生かして印刷機をはじめとする輸入商として成功する)。

これらのメンバーは将軍の実弟派遣にふさわしく欧米新知識を吸収して、その後も活躍する人材が多く含まれていた。
一方で水戸藩から小姓七名が加わっており、彼らは日本での生活様式、帯刀による警護スタイルをそのまま現地で遂行し続ける守旧派であった。

一月一一日に横浜をフランス郵船アルヘー号(一五〇〇トン)で出航し、五九日かかって二月二九日にフランスのマルセーユ港に到着している。
その間一行は上海、香港に寄港し、同地で一回り大きなアンペラトリース号に乗り換え、サイゴン、シンガポール、スリランカ、アデンと立ち寄り、スエズで下船する。
アレキサンドリアまで汽車で移動し、その後、再び船に地中海を横断してマルセーユに至る行程であった。

上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。

パリ万国博覧会の随行員のメンバーは、帰国後に新知識を吸収して、いろんな分野で活躍しますが当時の日本の現情に閉塞感を覚えていた渋沢をはじめ西欧新知識の吸収に意欲的な者にとっては道中のアジアとヨーロッパの姿をどのように見たのでしょうね、その様子は次回に見ていきます。

今日は以上です。