日独伊三国の同盟推進は英米との戦争になりかねないとの懸念から山本五十六は三国同盟推進に徹底して反対しましたが今回はこの辺りの様子を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回5月12日続き(三国同盟に対する一般的な空気)でみていきます。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

しかし、同盟推進派の人たちがいくら脅迫状を送っても、海軍のトリオは一歩も引きません。
茫洋としていてあまり正面に出てこない米内さんと違って、新聞などにもずけずけ言う山本五十六はとくにテロリストの標的にもなり、海軍全体に対しても揺さぶりがどんどんかかります。
ところが不思議なことに、あまりに揺さぶりがかかってくると、海軍の親独派の中堅クラスも、自分らの大将が殺されてはたいへんとばかりに、少しずつ現状では同盟反対の気運になってきました。

他方、ひどくなる外部からの脅迫に、山本五十六が五月三十一日付で書いた遺書「述志(じゅつし)」は有名です。
密かにしたため、机の中にしまっていたといいます。
いつ死んでもいいと、そのかわり一歩も引かないという決意を述べたものです。

「一死君国(いっしくんこく)に報(ほう)ずるは素(もと)より武人(ぶじん)の本懐(ほんかい)のみ。
あに戦場と銃後(じゅうご)とを問(と)はむや。
勇戦奮闘(ゆうせんふんとう)戦場の華(はな)と散らんは易(や)すし。
誰か至誠一貫俗論(しせいいっかんぞくろん)を排(はい)し斃(た)れて已(や)むの難(かた)きを知らむ。
高遠(こうえん)なる哉君恩(かなくんおん)、悠久(ゆうきゅう)なるかな皇国。
思はざる可(べ)からず君国百年の計。
一身(いっしん)の栄辱生死(えいじょくせいし)、あに論ずる閑(かん)あらんや。
語に曰(いわ)く。
丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香と。
(丹[たん]磨[みが]くべしその色奪[うば]ふべからず、蘭[らん]やくべしその香滅[こうめつ]すべからずと)
此身(このみ)滅(めつ)す可(べ)し、此志(このこころざし)奪ふ可(べ)からず」

戦場で死ぬのも内地で銃後で死ぬのも同じだ、むしろ戦場で弾(たま)に当たって死ぬほうが易(やさ)しい。
自分の思いを貫き、いかなる俗論にも負けずに「斃(たお)れてのちやむ」ほうがよほど難しい。
この身は滅んでもいい、しかしこの志(こころざし)は奪うことはできないのである、と。

このくらい山本五十六は覚悟し、米内光政、井上成美も頑として動かないので、ついに陸軍は「三人を追い落としてしまえ」と、なんと脅迫的に海軍省前で部隊演習をすれば、海軍も「向こうがその気なら」とばかりに省内に兵器、弾薬、食糧をはじめ、停電に備えて自家発電装置まで整え、持久戦をも辞さぬと井戸まで掘ったとか。
「いいか、水と電気を切られると、省内籠城(しょうないろうじょう)の三千人が水洗便所を使えなくなろぞ」などと言いながら三千人が省内にたてこもり、陸軍と一騎討ちの準備まで完成させたそうです。

井上成美が戦後、『思い出の記』で回想しています。
「昭和十二、三、四年にまたがる私の軍務局長時代の三年間は、その精力と時間の大半を三国同盟問題に、しかも積極性のある努力でなしに、ただ陸軍の全軍一致の強力な主張と、これに共鳴する海軍若手の攻撃に対する防御(ぼうぎょ)だけに費やされた感あり」

以上は昭和十四年のことで、満州ではノモンハン事件の真っ最中です。
この懸命な頑張りが続かなくなるのは、ヨーロッパで第二次世界大戦が起こってしまうからなのですが、その前にもう一つ、当時の日本がいかにアンチ・イギリス――その後ろにいるアメリカをも含みますが――になってきたかを物語る事件が起こります。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

根拠のない強気一点張りの俗論に対し海軍次官の立場で敢然として立ち向かった山本五十六が内閣が変わったことによる移動により連合艦隊司令長官として開戦のハワイ攻撃の指揮を執ることになるとは皮肉なめぐり合わせと言うしかないですね。

今日は以上です。