現代日本の情況を考える上で山本周五郎が伊達騒動を主題にした「樅の木は残った」の主人公、原田甲斐を取り上げて政治に翻弄される武士の姿から現代に思いを巡らせた日経新聞、日曜日に連載されている宗教学者の山折哲雄氏の「危機と日本人」を紹介・引用いたします。
以下、5月13日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(11)より
国民の耳目を集めた裁判の一審判決が、「無罪」で終わった。
小沢一郎民主党元代表をめぐる裁きの庭である。
政治資金の処理について有罪か無罪かが争われたのだった。
判決をみると金の流れは不透明であるが、「共謀」の犯罪は立証できないので無罪なのだという。
白か黒かわからない、かぎりなく黒に近い灰色だ、というのが大方のメディアの診断だった。
控訴はされたものの、このところ国会でもこれまた緊張を欠いた灰色模様の党利党略をみせつけられていたので、当分のあいだ気分は晴れそうにない。
つれぞれのまま思いおこすのが、山本周五郎の長編『樅(もみ)の木は残った』である。
伊達騒動を主題にした小説である。
仙台藩六十二万石に保守派と進歩派による権力闘争がおこり、そのスキに乗じて幕府がお家取りつぶしを策する。
通説では、進歩派に属する家老の原田甲斐が騒動の主犯、すなわち腹黒い悪人と評されてきたが、それはあくまでも原田のオモテの顔で、じつはひそかに藩の危機を救うため、みずから凶刃に伏した忠義の武人だった、というのが作家、山本周五郎の見立てだった。
お家の取りつぶしをはかる幕府の大老が酒井雅楽頭(うたのかみ)、そうはさせじとその陰謀に身を挺(てい)して対決したのが封建武士の意地をみせる原田甲斐。
終幕で、江戸の酒井雅楽頭の邸で審問がおこなわれ、原田が保守派の伊達安芸に斬りつけ、逆に虐殺されて果てる。
危いところで、六十二万石を召上げる陰謀が潰える。
この小説は昭和29年(1954年)7月から翌30年4月まで、さらに昭和31年3月から同9月までの二度にわたって『日本経済新聞』紙上に連載され、あらたに350枚を加筆して完成をみた労作である。
作者は原田甲斐の人間を描くにあたって、花や自然を愛し、人の心を美しいものと思い、しかし自分自身は孤独な喜びのなかに自足する自然人として、魅力的な人物を浮かび上がらせようとしている。
それが政治の渦中にまきこまれ、悪の中心人物と思われるような行動にすすまなければならなくなる。
作者は日ごろ、政治はつねに庶民から何ものかを奪い、服従を強いる存在として立ちはだかるものだ、といっていた。
そこからくる行きどころのない憤りと、深い孤独感がこの作品にも色濃く立ちのぼっているのである。
私は上京するときは、よく東京駅近くのホテルに宿をとる。
便利であるからだが、そんなとき皇居大手門のすぐそばに鎮座する平将門の首塚にお詣(まい)りする。
天慶3年(940年)に、将門は逆賊として殺されたが、怨(うら)みをふくんだかれの首は宙を飛んで、各地に遺恨のあとをのこした。
江戸の神田明神をはじめとする神社や首塚が、各地に祀(まつ)られることになったのだ。
そこを訪れるたびに感心するのだが、そのせまい一画がいつも誰かによってきれいに掃き清められている。
それに香華が絶えない。
将門信仰がこの地にいまだに息づいているのがわかる。
じつをいうとこの地は、明治時代には大蔵省があったところだ。
ところが、新時代の官庁にそんな首塚のようなものが祀られているのは近代国家の恥であるとして、たびたび撤去の話がもちあがった。
もっともな議論であったが、不思議なことにそのつど異変がおこり沙汰やみとなった。
ついに大蔵省はこの地を逃げだし、現在の霞が関に移ってしまったのだという。
だが、縁は異なものというべきか、この平将門の首塚の場所は、どういう歴史の幾転変があったのかはしらないが、江戸時代になって酒井雅楽頭の上屋敷の庭になった。
しかもその屋敷で、あの伊達騒動で知られる原田甲斐と伊達安芸が殺し合いを演じて血を流したのである。
因縁の場所というほかはない。
前方をみれば皇居のお堀端。
南へ歩けば東京駅の赤レンガを眼前に望むことができるが、その地にサムライたちの怨霊、亡魂の影がいまなお立ちこめているのである。
武家屋敷の庭は、しばしば罪人を引き立ててきて審問する場に変じた。
罪状認否をおこなうお白洲(しらす)である。
白い砂や小石が敷きつめられているから、お白洲といった。
伊達騒動で取り調べをうけた伊達安芸と原田甲斐も、その酒井雅楽頭の上屋敷の庭で糾問をうけたのである。
いま、その首塚から地方裁判所まで、内堀通りを歩いてほぼ三十分、国会議事堂まで小一時間である。
上記は5月13日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(11)より引用いたしました。
権力闘争という渦中に巻き込まれていく人物を通して、お家を守るためには敢えて汚名を着ることで陰謀を潰すことに身を挺した原田甲斐の武士としての生き方を取り上げながら山折氏は私たちの現代社会に対する生き方を問うているように感じました。
原田甲斐という人物をどう捉えるか、今の時代だから考えてみることが必要なのかも知れませんね。
今日は以上です。
以下、5月13日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(11)より
国民の耳目を集めた裁判の一審判決が、「無罪」で終わった。
小沢一郎民主党元代表をめぐる裁きの庭である。
政治資金の処理について有罪か無罪かが争われたのだった。
判決をみると金の流れは不透明であるが、「共謀」の犯罪は立証できないので無罪なのだという。
白か黒かわからない、かぎりなく黒に近い灰色だ、というのが大方のメディアの診断だった。
控訴はされたものの、このところ国会でもこれまた緊張を欠いた灰色模様の党利党略をみせつけられていたので、当分のあいだ気分は晴れそうにない。
つれぞれのまま思いおこすのが、山本周五郎の長編『樅(もみ)の木は残った』である。
伊達騒動を主題にした小説である。
仙台藩六十二万石に保守派と進歩派による権力闘争がおこり、そのスキに乗じて幕府がお家取りつぶしを策する。
通説では、進歩派に属する家老の原田甲斐が騒動の主犯、すなわち腹黒い悪人と評されてきたが、それはあくまでも原田のオモテの顔で、じつはひそかに藩の危機を救うため、みずから凶刃に伏した忠義の武人だった、というのが作家、山本周五郎の見立てだった。
お家の取りつぶしをはかる幕府の大老が酒井雅楽頭(うたのかみ)、そうはさせじとその陰謀に身を挺(てい)して対決したのが封建武士の意地をみせる原田甲斐。
終幕で、江戸の酒井雅楽頭の邸で審問がおこなわれ、原田が保守派の伊達安芸に斬りつけ、逆に虐殺されて果てる。
危いところで、六十二万石を召上げる陰謀が潰える。
この小説は昭和29年(1954年)7月から翌30年4月まで、さらに昭和31年3月から同9月までの二度にわたって『日本経済新聞』紙上に連載され、あらたに350枚を加筆して完成をみた労作である。
作者は原田甲斐の人間を描くにあたって、花や自然を愛し、人の心を美しいものと思い、しかし自分自身は孤独な喜びのなかに自足する自然人として、魅力的な人物を浮かび上がらせようとしている。
それが政治の渦中にまきこまれ、悪の中心人物と思われるような行動にすすまなければならなくなる。
作者は日ごろ、政治はつねに庶民から何ものかを奪い、服従を強いる存在として立ちはだかるものだ、といっていた。
そこからくる行きどころのない憤りと、深い孤独感がこの作品にも色濃く立ちのぼっているのである。
私は上京するときは、よく東京駅近くのホテルに宿をとる。
便利であるからだが、そんなとき皇居大手門のすぐそばに鎮座する平将門の首塚にお詣(まい)りする。
天慶3年(940年)に、将門は逆賊として殺されたが、怨(うら)みをふくんだかれの首は宙を飛んで、各地に遺恨のあとをのこした。
江戸の神田明神をはじめとする神社や首塚が、各地に祀(まつ)られることになったのだ。
そこを訪れるたびに感心するのだが、そのせまい一画がいつも誰かによってきれいに掃き清められている。
それに香華が絶えない。
将門信仰がこの地にいまだに息づいているのがわかる。
じつをいうとこの地は、明治時代には大蔵省があったところだ。
ところが、新時代の官庁にそんな首塚のようなものが祀られているのは近代国家の恥であるとして、たびたび撤去の話がもちあがった。
もっともな議論であったが、不思議なことにそのつど異変がおこり沙汰やみとなった。
ついに大蔵省はこの地を逃げだし、現在の霞が関に移ってしまったのだという。
だが、縁は異なものというべきか、この平将門の首塚の場所は、どういう歴史の幾転変があったのかはしらないが、江戸時代になって酒井雅楽頭の上屋敷の庭になった。
しかもその屋敷で、あの伊達騒動で知られる原田甲斐と伊達安芸が殺し合いを演じて血を流したのである。
因縁の場所というほかはない。
前方をみれば皇居のお堀端。
南へ歩けば東京駅の赤レンガを眼前に望むことができるが、その地にサムライたちの怨霊、亡魂の影がいまなお立ちこめているのである。
武家屋敷の庭は、しばしば罪人を引き立ててきて審問する場に変じた。
罪状認否をおこなうお白洲(しらす)である。
白い砂や小石が敷きつめられているから、お白洲といった。
伊達騒動で取り調べをうけた伊達安芸と原田甲斐も、その酒井雅楽頭の上屋敷の庭で糾問をうけたのである。
いま、その首塚から地方裁判所まで、内堀通りを歩いてほぼ三十分、国会議事堂まで小一時間である。
上記は5月13日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(11)より引用いたしました。
権力闘争という渦中に巻き込まれていく人物を通して、お家を守るためには敢えて汚名を着ることで陰謀を潰すことに身を挺した原田甲斐の武士としての生き方を取り上げながら山折氏は私たちの現代社会に対する生き方を問うているように感じました。
原田甲斐という人物をどう捉えるか、今の時代だから考えてみることが必要なのかも知れませんね。
今日は以上です。