渋沢栄一の青年時代を前回5月2日島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から引用させていただきましたが、今回は渋沢が攘夷行動を中止した後の行動を今回は見ていきます。

以下、島田昌和氏、社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より

父の死
血洗島で過ごした栄一の青少年期では、やはり父親の影響が計り知れず大きいように思われる。
父・美雅は渋沢が大蔵省出仕中の一八七一(明治四)年の暮れ近くに亡くなった。
一一月一三日に危篤となり、渋沢は一五日に出張先の大阪から帰った時にその知らせに接し、翌朝井上馨大蔵大輔へ出張報告をして帰省の許可をもらい、その日のうちに血洗島に戻っている。
美雅は二二日に永眠し、栄一が葬儀等を済ませて東京へ戻ったのは一二月初旬であった。

第一国立銀行の設立準備で忙殺されていた時期に三週間近く東京を空けたのであった。
その後の活路は栄一が自ら切り開いたものとはいえ、施してもらった教育、商業体験、そして過激な志士としての行動に対する一定の理解など、父なくしては形作られなかった人格であった。

京へ旅立つ
挙兵計画を中止したものの、栄一は捕縛される恐れが高く、それから逃れるために共に行動した渋沢喜作とともに家を出ることにした。
あれこれ考えをめぐらし、かつて江戸に学んだときに知遇を得て仕官を進められていた一橋家の用人・平岡円四郎を訪ね、京に滞在して留守の平岡宅で円四郎家来という名目をもらい、一八六三(文久三)一一月一四日、京へ旅立った。

そもそも栄一は平岡円四郎には一橋家家臣・川村恵十郎から引き合わされていた。
川村は甲州駒根木の関守の家に生まれながら家臣に取り立てられていた。
前年に一橋慶喜が将軍後見職となり、政治の中心に躍り出た一橋家は有為な人材を広く求めていたと思われる(山本七平『渋沢栄一 近代の創造』)。
とはいえ、栄一は京ですぐさま一橋家に仕官を求めたわけではなかった。
諸国から集まってきた志士らと情勢や行動について意見を交わしたが大した成果を上げられぬ中、目的を見失っていった。
そのような状態が二ヵ月ほど続くが、関東に留まっていた尾高長七郎が幕府に捕縛されたことがわかり、同時に一橋家にも渋沢ら両人の嫌疑の問い合わせが来た。

上記は島田昌和氏、社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。

渋沢栄一における父親の影響は藍玉の製造販売という水田耕作に頼らない、新しい農業により富農となったことなどが後のビジネス界での活躍の基になっているように思われます、また生家で受けた教育や経験を一橋家の用人、平岡円四郎に見込まれたということかも知れませんね。

今日は以上です。