人は疑う存在であることともに他者との共存を可能にする共同体を支える人間観を対象にして焦点をあてられた宗教学者、山折哲雄氏による日経新聞の連載記事「危機と日本人」を紹介・引用いたします。
以下、5月6日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(10)より
このところ元首相の「トラスト・ミー」(信じて下さい)という発言が、槍玉(やりだま)にあげられている。
米大統領との交渉のなかで飛び出した言葉だったが、沖縄の基地移転問題を紛糾させる原因ともなった。
それがメディアなどで揶揄(やゆ)・嘲笑の対象にされたのは、その決め科白(せりふ)が安っぽい空手形に終わったからだった。
しかしよく考えてみるとわれわれの社会では、「信用しているよ」とか「あれほど信頼していたのに……」といった言葉がよく使われる。
「信なくば立たず」といった決意表明にもかなりの共感が寄せられる。
元首相の失態はもしかすると日本人の日常的な心構えの自然な反映であり、したがって根はもっと深いのかもしれないのである。
やはり人間観の落差、といった問題が介在していると思わないわけにはいかない。
端的にいって西欧社会では、人間とはそもそも疑うべき存在であるという考えが主流を占めてきたのではないだろうか。
生き残りのためのきびしい生存競争が、無意識のうちに人間行動のパターンを生みだしている。
やがてそれが英国の哲学者、ホッブスのいう「人間はすべての人間にとっての狼(おおかみ)」という言明に行き着く。
資本主義の精神に巣くう影の部分である。
だからデカルトのいう例の「われ考える、ゆえにわれあり」の「考える」が、さらに掘り下げていけばじつは「疑う」ことだったことがわかる。
近代の夜明けを告げる科学の光の部分は、まさにこの疑う精神から開花したのだった。
ところがである。
もしも人間同士が疑わしい眼差(まなざ)しを交換してばかりいては、そもそも共同体や社会を形成することなどおぼつかないだろう。
そのためそこに、二つの重要な条件が導入されることになった。
超越信仰と契約の精神である。
すなわち個々の疑わしき主体は、それぞれ絶対的な存在(神)によって垂直的にコントロールされている。
そして他方、水平的には債権、債務にもとづく契約の関係を通して他者との共存を可能にする、という条件である。
ただ超越神が力を失った現代においては、理性とか正義といった普遍原理がいわば神の代替物として市場に流通しはじめることになった。
このように考えると、われわれの社会には一神教も契約の観念も育たなかったということに気づく。
かの地では当然のこととされていた二つの条件を欠いていたということだ。
そんなところにもしも人間とは疑うべき存在であるといった命題をもちこめば、この日本社会がたちまち自壊作用をおこすであろうことは目にみえているではないか。
その危機を回避するために浮上してきたのが、「人は信ずべき存在である」という人間観だったのだと思う。
「われ疑う、ゆえにわれあり」に代わって、「われ信ず、ゆえにわれあり」のモラルを生活の基盤にすえるほかはなかったのである。
精神の基軸をそこに求めざるをえなかっいたといっていい。
こういえばあまりに単純な議論といわれそうであるが、しかしその誤解を避けるためにもいっておかなければならないことがある。
それはいくら「われ信ず、ゆえにわれあり」といってみても、現実には人はいつでも人を裏切る存在だという事実である。
その点ではむろん「われ疑う、ゆえにわれあり」の世界と何ら変るところはない。
ただ問題なのは、人はそもそも裏切る存在だからといって、ただちに「われ疑う、ゆえにわれあり」の人間観を採用するわけにはいかなかったというのが、さきにのべた理由によってこの日本列島の社会の運命であった。
いってみれば、人間は裏切る存在であるという命題を心に抱えこんだまま、それにもかかわらず「われ信ず、ゆえにわれあり」といわなければならないのが、ほかならぬわれわれの社会だったのだ。
それが社会(共同体)たらしめる不可欠の組織原理だったといっていいだろう。
オモテでは「人は信ずべき存在である」といいつつ、しかし心の底では「人は裏切る存在である」という諦念を引き受けていく。
そういう自己否定的というか、多少とも被虐的ではあるけれども、いってみれば「無私」であることを重視するモラルが、こうしてしだいにでき上がっていったのではないか。
そこには心なしか無常の風が吹いていたのであるが、それが仏教の諦めの観念に染めあげられて美的なニヒリズムへと昇華をとげることになったのだと私は思う。
その高貴な香りは、いったいどこに行ったのか。
上記は5月6日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(10)より引用いたしました。
デカルトの「われ考える、ゆえにわれあり」が「疑う」ということであったとする見方は確かに西洋的な合理的精神の基になっていると言えるのかも知れません、これに対して日本における共同体の人間観という概念で「人は信ずべき存在である」として「人は裏切る存在である」ことも引き受けながら「われ信ず、ゆえにわれあり」という精神性の境地に危機に対する心構えという捉え方で論じられていることに改めて日本社会というものを考えさせられます。
それだけに「われ信ず、ゆえにわれあり」に対しての裏切りがモラルとして問われて来るということではないでしょうか。
今日は以上です。
以下、5月6日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(10)より
このところ元首相の「トラスト・ミー」(信じて下さい)という発言が、槍玉(やりだま)にあげられている。
米大統領との交渉のなかで飛び出した言葉だったが、沖縄の基地移転問題を紛糾させる原因ともなった。
それがメディアなどで揶揄(やゆ)・嘲笑の対象にされたのは、その決め科白(せりふ)が安っぽい空手形に終わったからだった。
しかしよく考えてみるとわれわれの社会では、「信用しているよ」とか「あれほど信頼していたのに……」といった言葉がよく使われる。
「信なくば立たず」といった決意表明にもかなりの共感が寄せられる。
元首相の失態はもしかすると日本人の日常的な心構えの自然な反映であり、したがって根はもっと深いのかもしれないのである。
やはり人間観の落差、といった問題が介在していると思わないわけにはいかない。
端的にいって西欧社会では、人間とはそもそも疑うべき存在であるという考えが主流を占めてきたのではないだろうか。
生き残りのためのきびしい生存競争が、無意識のうちに人間行動のパターンを生みだしている。
やがてそれが英国の哲学者、ホッブスのいう「人間はすべての人間にとっての狼(おおかみ)」という言明に行き着く。
資本主義の精神に巣くう影の部分である。
だからデカルトのいう例の「われ考える、ゆえにわれあり」の「考える」が、さらに掘り下げていけばじつは「疑う」ことだったことがわかる。
近代の夜明けを告げる科学の光の部分は、まさにこの疑う精神から開花したのだった。
ところがである。
もしも人間同士が疑わしい眼差(まなざ)しを交換してばかりいては、そもそも共同体や社会を形成することなどおぼつかないだろう。
そのためそこに、二つの重要な条件が導入されることになった。
超越信仰と契約の精神である。
すなわち個々の疑わしき主体は、それぞれ絶対的な存在(神)によって垂直的にコントロールされている。
そして他方、水平的には債権、債務にもとづく契約の関係を通して他者との共存を可能にする、という条件である。
ただ超越神が力を失った現代においては、理性とか正義といった普遍原理がいわば神の代替物として市場に流通しはじめることになった。
このように考えると、われわれの社会には一神教も契約の観念も育たなかったということに気づく。
かの地では当然のこととされていた二つの条件を欠いていたということだ。
そんなところにもしも人間とは疑うべき存在であるといった命題をもちこめば、この日本社会がたちまち自壊作用をおこすであろうことは目にみえているではないか。
その危機を回避するために浮上してきたのが、「人は信ずべき存在である」という人間観だったのだと思う。
「われ疑う、ゆえにわれあり」に代わって、「われ信ず、ゆえにわれあり」のモラルを生活の基盤にすえるほかはなかったのである。
精神の基軸をそこに求めざるをえなかっいたといっていい。
こういえばあまりに単純な議論といわれそうであるが、しかしその誤解を避けるためにもいっておかなければならないことがある。
それはいくら「われ信ず、ゆえにわれあり」といってみても、現実には人はいつでも人を裏切る存在だという事実である。
その点ではむろん「われ疑う、ゆえにわれあり」の世界と何ら変るところはない。
ただ問題なのは、人はそもそも裏切る存在だからといって、ただちに「われ疑う、ゆえにわれあり」の人間観を採用するわけにはいかなかったというのが、さきにのべた理由によってこの日本列島の社会の運命であった。
いってみれば、人間は裏切る存在であるという命題を心に抱えこんだまま、それにもかかわらず「われ信ず、ゆえにわれあり」といわなければならないのが、ほかならぬわれわれの社会だったのだ。
それが社会(共同体)たらしめる不可欠の組織原理だったといっていいだろう。
オモテでは「人は信ずべき存在である」といいつつ、しかし心の底では「人は裏切る存在である」という諦念を引き受けていく。
そういう自己否定的というか、多少とも被虐的ではあるけれども、いってみれば「無私」であることを重視するモラルが、こうしてしだいにでき上がっていったのではないか。
そこには心なしか無常の風が吹いていたのであるが、それが仏教の諦めの観念に染めあげられて美的なニヒリズムへと昇華をとげることになったのだと私は思う。
その高貴な香りは、いったいどこに行ったのか。
上記は5月6日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(10)より引用いたしました。
デカルトの「われ考える、ゆえにわれあり」が「疑う」ということであったとする見方は確かに西洋的な合理的精神の基になっていると言えるのかも知れません、これに対して日本における共同体の人間観という概念で「人は信ずべき存在である」として「人は裏切る存在である」ことも引き受けながら「われ信ず、ゆえにわれあり」という精神性の境地に危機に対する心構えという捉え方で論じられていることに改めて日本社会というものを考えさせられます。
それだけに「われ信ず、ゆえにわれあり」に対しての裏切りがモラルとして問われて来るということではないでしょうか。
今日は以上です。