企業家として指導者型の代表的人物である渋沢栄一島田昌和氏の「渋沢栄一」から紹介・引用していますが、前回4月25日は生家が富農とは言え武家の子どものような教育を受けて育ったことについて見て来ましたが今回は青年期について見ていきます。

以下、島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」より

江戸で学ぶ
そして青年期になるとさらに江戸で学ぶという大きな機会を得た。
ペリーの来航した一八五三(嘉永六)年に一三歳にして初めて江戸を見物し、翌年再度江戸を訪れている。
その翌年には渋沢の従兄弟にもあたる尾高長七郎が江戸の海保漁村の塾に入り、渋沢に先んじて尊皇攘夷の志士に成長していった。
一八六〇年頃には本材精舎を主宰した菊池菊城が尾高家に寄宿し、尾高惇忠や栄一や三代目宗助の弟の興した「新屋敷」家の喜作らが門人となった。
そしてここには津和野藩士や薩摩藩士なども出入りしたのであった(井上潤)。

その後、一八六一年には栄一もニ一歳にして江戸に出て海保漁村の塾生となり、同時に千葉道場で剣法を学んだのであった。
ここから攘夷の直接行動に向けて突き進んでいく。
すなわち、一八六ニ年に長七郎は坂下門外での老中・安藤信正襲撃計画に参加したが、実行には加わらず京都に潜入した。
翌一八六三には地域の思想形成に多大な影響を与えた桃井可堂が赤城山で旗揚げして攘夷決行を目論んだが失敗して、翌年自首し絶食して死亡している。

攘夷の直接行動、寸前で中止
一八六三年には栄一には一五〇両ほどの資金で槍や刀を一〇〇本ほど揃え、千葉道場や海保塾で懇意になった者たちと総勢七〇人ほどで高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを計画した(『雨夜譚』)。
しかしながら同年七月の薩英戦争により、圧倒的な軍事力の差から攘夷の直接行動が困難なことをまざまざと見せつけられ、さらに八月十八日の政変によって過激派公卿が京都から追放され、攘夷の直接行動の無謀さがはっきりし始めた状況であった。

一〇月末には尾高長七郎が京から戻り、京の情勢と天誅組の変の失敗を語って、高崎城乗っ取り計画を止めに入ったので寸前で中止されたのであった。
一般的に「下手計村や血洗島村など岡部藩領の農民大多数の人は、勤皇・攘夷論、ひいては倒幕というような、革新思想に酔う者は極めて少数であった」(『追補編』)と言われている。
事実、天保年間の入間郡に発した窮民暴動は岡部藩近くまでは及ばなかった。
渋沢らの攘夷行動は同士六九名と言われるが、渋沢・尾高両家以外の地元の農村青年はほとんど参加していない(同前)。

身分制社会への怒り
以上のように、比較的安定した農村の中で幕末に急成長した渋沢一族は広範な経済活動を背景にして上昇志向を持ち、一族の次世代に学問や教育を身につけさせ、それによって社会変革活動に目覚めていったのであった。
そして、栄一にとっては父親の名代で出頭した岡部で代官からの一方的な要求に黙って従うことを強要されたことが、身分制社会のさまざまな矛盾に対して怒りを爆発させ、変革への行動に邁進(まいしん)する発火点となった。
この時に実力や能力のあるものが誰でも世に出られる社会にすべきであると強く考えるようになったと、その後栄一が生涯にわたってよく言及したが、まさにターニングポイントであった。

上記は島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」より引用いたしました。

青年となった渋沢栄一が、その育った環境から革新的な気風に触れて尊皇攘夷の志士になっていったのは、ある意味で当然なことだったのでしょう。
高崎城乗っ取りや横浜焼き討ちを計画し武器を用意していたとは当に志士そのものですね、それにしても先鋭的な感覚が彼を衝き動かしていたのかも知れませんが時代が変わろうとするものを肌で感じながら得体の知れないもどかしさを感じていたように思います。

今日は以上です。