今回から日本産業史における近代企業家の指導者型タイプの代表的人物である渋沢栄一に焦点を当て、その足跡を追うことで現代という時代の方向性を探るキッカケになればと考えています。
渋沢栄一の足跡と彼の社会に対する見方や考え方については島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」から紹介・引用していくことといたしました。(一部略)
以下、島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」より
渋沢栄一は一八四〇(天保一一)年、武蔵国現在の埼玉県深谷市内、JRの深谷駅から北西の方角に五キロほど離れた血洗島(ちあらいじま)村に生まれた。
血洗島村は行政区としては、上手計(かみてばか)村、下手計村などとともに旧八基村に属し、その後他村と一緒に豊里村を形成し、一九七三年に深谷市と合併した。
血洗島村は村に土着した旧武家の吉岡和泉をはじめとする五軒が天正期(一五七三~九一)に開墾して始まった村であった。
江戸期の農産物は穀類・蔬菜・養蚕・藍が代表的なもので、水田は少なく、牛馬の飼育者も少ない、一農家の耕地が三町歩を超えるのは稀な「平均よりやや小さめの村」であった。
このように紹介するといかにも貧しい農村のようだが、一方で江戸時代のこの村は、基本的には「幾度か洪水の難をうけたが、地味は肥え、交通の便にも恵まれ、住民は農事に励み、平穏な日々をおくったと思われる」と分析されている。
この地の利点は、陸上・水上交通ともに利用できる交通の要所であったことである。
中山道の宿場である深谷宿は、江戸から約二〇里、九宿目にあたった。
中山道と上州越後方面への脇往還北越街道の分岐点であり、人と物資がともに行きかう陸上交通の要所であった。
さらに利根川の水運の中継基地である中瀬河岸場が生家のごく近くにあった。
以上のことからわかるように、血洗島を中心とした地域は水田が少なく、経営規模の小さな農家が多いものの、比較的安定した支配構造と交通の便に恵まれ、発展の条件を備えた地域であった。
全般的に飢饉の被害が少なく、激しい圧政もなかったようで、打ちこわしや一揆もさほど起こっていない。
そのような状況を背景に、村内においては江戸中期以降に特定の家による土地や財の集積が進み、その一方で土地保有が一町未満の貧農が大多数を占めるという格差の拡大が進行した。
幕末に村の秩序に変化をもたらした主役の一家が急速に成長して村内の中心に躍り出た。
その家が渋沢栄一の生家であった。
渋沢栄一が生まれた村内一古い「中の家」と呼ばれた渋沢一族の宗家であった。
渋沢一族は血洗島の成立期から存在する吉岡、笠原、福島、渋沢の四家の一つであった。
渋沢姓の家は次々に分家を重ね、天保期には一〇数軒に増加していた。
父は渋沢美雅(よしまさ)といい、同時に当主として代々市郎右衛門を称していた。
しかしながら栄一の父はこの家に生まれたわけではく、村内随一の土地や財を保有している「東の家」と呼ばれた渋沢宗助(第二代)の三男であり婿養子に入って宗家を継いだのであった。
父美雅は武家を志して武芸・学問を身に付けるが、その後家業に専念し、安部摂津守から名字帯刀を許された「非凡の人物」「武士的気質(ぶけかたぎ)の人」言われている。
栄一が生まれ育った「中の家」は渋沢宗家であるにもかかわらず、江戸時代初期の一六五六年の時点では水田を保有しない三〇戸中二一番目の小農家であった。
それが栄一の父の代に藍玉の製造販売で財を成し、東の家に継ぐ富農となった。
この地域の藍作や藍玉の製造は幕末からで、一八二四(文政七)年に隣村の下手計村では畑の七〇%が麦作と裏作での大豆栽培をおこなっており、一四%が藍作であった。
藍作や藍玉製造は四国の徳島から伝来したと言われ、販路は主として群馬、長野、秩父方面の紺屋と呼ばれる染物屋であった。
藍業を手広くおこなっていたのは、血洗島のいくつかの渋沢家と手計の尾高家などであった。
その中で渋沢「中の家」の売上高は年間で一万両にのぼったと推計されている。
上記は島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」より引用いたしました。
今回がはじめてなので先ずは渋沢栄一が生まれた環境について見てきましたが父親の代で小農家から藍玉の製造販売で富農になったことは渋沢栄一の実業家資質に影響を与えていたと思われます。
今日は以上です。
渋沢栄一の足跡と彼の社会に対する見方や考え方については島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」から紹介・引用していくことといたしました。(一部略)
以下、島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」より
渋沢栄一は一八四〇(天保一一)年、武蔵国現在の埼玉県深谷市内、JRの深谷駅から北西の方角に五キロほど離れた血洗島(ちあらいじま)村に生まれた。
血洗島村は行政区としては、上手計(かみてばか)村、下手計村などとともに旧八基村に属し、その後他村と一緒に豊里村を形成し、一九七三年に深谷市と合併した。
血洗島村は村に土着した旧武家の吉岡和泉をはじめとする五軒が天正期(一五七三~九一)に開墾して始まった村であった。
江戸期の農産物は穀類・蔬菜・養蚕・藍が代表的なもので、水田は少なく、牛馬の飼育者も少ない、一農家の耕地が三町歩を超えるのは稀な「平均よりやや小さめの村」であった。
このように紹介するといかにも貧しい農村のようだが、一方で江戸時代のこの村は、基本的には「幾度か洪水の難をうけたが、地味は肥え、交通の便にも恵まれ、住民は農事に励み、平穏な日々をおくったと思われる」と分析されている。
この地の利点は、陸上・水上交通ともに利用できる交通の要所であったことである。
中山道の宿場である深谷宿は、江戸から約二〇里、九宿目にあたった。
中山道と上州越後方面への脇往還北越街道の分岐点であり、人と物資がともに行きかう陸上交通の要所であった。
さらに利根川の水運の中継基地である中瀬河岸場が生家のごく近くにあった。
以上のことからわかるように、血洗島を中心とした地域は水田が少なく、経営規模の小さな農家が多いものの、比較的安定した支配構造と交通の便に恵まれ、発展の条件を備えた地域であった。
全般的に飢饉の被害が少なく、激しい圧政もなかったようで、打ちこわしや一揆もさほど起こっていない。
そのような状況を背景に、村内においては江戸中期以降に特定の家による土地や財の集積が進み、その一方で土地保有が一町未満の貧農が大多数を占めるという格差の拡大が進行した。
幕末に村の秩序に変化をもたらした主役の一家が急速に成長して村内の中心に躍り出た。
その家が渋沢栄一の生家であった。
渋沢栄一が生まれた村内一古い「中の家」と呼ばれた渋沢一族の宗家であった。
渋沢一族は血洗島の成立期から存在する吉岡、笠原、福島、渋沢の四家の一つであった。
渋沢姓の家は次々に分家を重ね、天保期には一〇数軒に増加していた。
父は渋沢美雅(よしまさ)といい、同時に当主として代々市郎右衛門を称していた。
しかしながら栄一の父はこの家に生まれたわけではく、村内随一の土地や財を保有している「東の家」と呼ばれた渋沢宗助(第二代)の三男であり婿養子に入って宗家を継いだのであった。
父美雅は武家を志して武芸・学問を身に付けるが、その後家業に専念し、安部摂津守から名字帯刀を許された「非凡の人物」「武士的気質(ぶけかたぎ)の人」言われている。
栄一が生まれ育った「中の家」は渋沢宗家であるにもかかわらず、江戸時代初期の一六五六年の時点では水田を保有しない三〇戸中二一番目の小農家であった。
それが栄一の父の代に藍玉の製造販売で財を成し、東の家に継ぐ富農となった。
この地域の藍作や藍玉の製造は幕末からで、一八二四(文政七)年に隣村の下手計村では畑の七〇%が麦作と裏作での大豆栽培をおこなっており、一四%が藍作であった。
藍作や藍玉製造は四国の徳島から伝来したと言われ、販路は主として群馬、長野、秩父方面の紺屋と呼ばれる染物屋であった。
藍業を手広くおこなっていたのは、血洗島のいくつかの渋沢家と手計の尾高家などであった。
その中で渋沢「中の家」の売上高は年間で一万両にのぼったと推計されている。
上記は島田昌和氏の社会企業家「渋沢栄一」より引用いたしました。
今回がはじめてなので先ずは渋沢栄一が生まれた環境について見てきましたが父親の代で小農家から藍玉の製造販売で富農になったことは渋沢栄一の実業家資質に影響を与えていたと思われます。
今日は以上です。