ノモンハン事件について、いろいろな本などを見て来ましたが日本がこの事件から学ぶことが出来ていたらと思わないでもありません。
前回3月31日は半藤一利氏の「ノモンハンの夏」から日本陸軍が南進論に変わっていった経緯を見て来ましたが今回は前回と重なる部分もありますが3月24日に続いて半藤一利氏の「昭和史1926―1945」よりノモンハン事件に日本陸軍が何も学ばなかったことを見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
火力戦の能力向上については、これが勝利の戦いであったなら付け加えなかったでしょうね、言い訳めくから。
昭和十四年八月にこの戦いが二年半がたたないうちに、太平洋戦争がはじまります。
低水準の火力戦能力がわずか二年半で向上するはずはありません。
ノモンハン事件の本当の教訓はまったくかえりみられなかったと言っていいと思います。
その影響はどこにもなかったのか。
たった一つあるとすれば、服部卓四郎と辻政信の心の内にありました。
「これからは北に手を出すな。今度は南だ」
二人はそう確信したのです。そうとしか考えられない。
事件後、軍司令官や師団長は軍を去りますが、参謀たちは少し左遷(させん)されただけで罪は問われませんでした。
服部卓四郎は昭和十五年十月には参謀本部に戻って作戦班長に、翌十六年七月には作戦課長となります。
また辻政信は昭和十六年七月に作戦課に戻り、戦力班長になります。
つまりノモンハン事件で膨大な被害を被(こうむ)らせたはずの二人が再び参謀本部の作戦課に戻って「今度は南だ」と南進政策――これはイギリス、アメリカとの正面衝突を意味します――を、「こんどこそ大丈夫」と言わんばかりに推進したのです。
なお、参謀にはお咎(とが)めなし、というのは陸軍の伝統でもありました。
後の話になりますが、ご存じのように、太平洋戦争では日本は見る影もなく撃(う)ち破られるのです。
昭和十九年(1944)七月にサイパン島が陥落(かんらく)し、もはや太平洋戦争に勝利はないと確定した時、作戦課長であった服部卓四郎大佐はこう言ったといいます。
「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」
何たることか、ノモンハンの時にすでにわかっていたではないか、と言いたくなるのですが、いずれにしろ日本陸軍はこれだけの多くの人をホロンバイルの草原で犠牲(ぎせい)にしながら何も学びませんでした。
ノモンハン事件そのものは転換点的な、大きな何かがあるわけではないのですが、ただこの結果をもう少し本気になって考え反省していれば、対米英戦争という敗(ま)けるに決まっている、と後世のわれわれが批評するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないでしょうか。
でも残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。
いや、今も学ぼうとはしていない。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
ノモンハン事件については2月25日から取り上げて来ました、この事件にこれまでの回数を重ねたのは無責任な参謀による独りよがりな思惑に振り回された姿を捉えていただければ、と思ったからです。
また1939年8月に締結された独ソ不可侵条約はノモンハン事件が終わっていない段階でなされたものだけに外交戦略も含め、その戦略観の無さを衝かれたように思われます。
今日は以上です。
前回3月31日は半藤一利氏の「ノモンハンの夏」から日本陸軍が南進論に変わっていった経緯を見て来ましたが今回は前回と重なる部分もありますが3月24日に続いて半藤一利氏の「昭和史1926―1945」よりノモンハン事件に日本陸軍が何も学ばなかったことを見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
火力戦の能力向上については、これが勝利の戦いであったなら付け加えなかったでしょうね、言い訳めくから。
昭和十四年八月にこの戦いが二年半がたたないうちに、太平洋戦争がはじまります。
低水準の火力戦能力がわずか二年半で向上するはずはありません。
ノモンハン事件の本当の教訓はまったくかえりみられなかったと言っていいと思います。
その影響はどこにもなかったのか。
たった一つあるとすれば、服部卓四郎と辻政信の心の内にありました。
「これからは北に手を出すな。今度は南だ」
二人はそう確信したのです。そうとしか考えられない。
事件後、軍司令官や師団長は軍を去りますが、参謀たちは少し左遷(させん)されただけで罪は問われませんでした。
服部卓四郎は昭和十五年十月には参謀本部に戻って作戦班長に、翌十六年七月には作戦課長となります。
また辻政信は昭和十六年七月に作戦課に戻り、戦力班長になります。
つまりノモンハン事件で膨大な被害を被(こうむ)らせたはずの二人が再び参謀本部の作戦課に戻って「今度は南だ」と南進政策――これはイギリス、アメリカとの正面衝突を意味します――を、「こんどこそ大丈夫」と言わんばかりに推進したのです。
なお、参謀にはお咎(とが)めなし、というのは陸軍の伝統でもありました。
後の話になりますが、ご存じのように、太平洋戦争では日本は見る影もなく撃(う)ち破られるのです。
昭和十九年(1944)七月にサイパン島が陥落(かんらく)し、もはや太平洋戦争に勝利はないと確定した時、作戦課長であった服部卓四郎大佐はこう言ったといいます。
「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」
何たることか、ノモンハンの時にすでにわかっていたではないか、と言いたくなるのですが、いずれにしろ日本陸軍はこれだけの多くの人をホロンバイルの草原で犠牲(ぎせい)にしながら何も学びませんでした。
ノモンハン事件そのものは転換点的な、大きな何かがあるわけではないのですが、ただこの結果をもう少し本気になって考え反省していれば、対米英戦争という敗(ま)けるに決まっている、と後世のわれわれが批評するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないでしょうか。
でも残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。
いや、今も学ぼうとはしていない。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
ノモンハン事件については2月25日から取り上げて来ました、この事件にこれまでの回数を重ねたのは無責任な参謀による独りよがりな思惑に振り回された姿を捉えていただければ、と思ったからです。
また1939年8月に締結された独ソ不可侵条約はノモンハン事件が終わっていない段階でなされたものだけに外交戦略も含め、その戦略観の無さを衝かれたように思われます。
今日は以上です。