近衛霞山という名門貴族の人となりを葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より見て来ましたが今回は2月19日にも書いている清国の康有為が近衛霞山を訪ねた時の対話録を見ていきます。
難しい漢字などがあって読み難いと思いますが当時の事情を知る上で貴重なものですので出来れば目を通していただければと思います。

以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」康有為対話録より

夜に入り約束に依り康有為林和泉二人柏原文太郎に伴はれて来る中西正樹通訳の労を取る寒喧の礼終りて余先ず口を開き「異郷の風物一として貴国と同じきものなし定めて朝夕不便を感じ居られん」

康「柏原君の懇遇至れり尽せり更に異郷に在るの感なし感謝の至に堪へず」
余「東洋の時事日に切迫に及ぶ今日の東洋問題は独り東洋の問題にあらず世界の問題なり欧西列強自己の利害の為に東洋問題に相争ふ東洋は東洋の東洋なり東洋独り東洋問題を決するの権利なかるべからず米洲「モンロー」主義蓋し此意に外ならず東洋に於て亜細亜の「モンロー」主義を実行するの義務は繋りて貴我両邦人の肩に在り今日の時局容易に此事を行ふべくもあらず而かも我最終の目的此辺に在らざるべからず如何」

康「実に貴諭の如し悲哉弊国今回の事変は将に漸く進まんとするの国運を再び沈淪せしめたり今日国皇の聡明なるも亦如何ともすること能はず国皇の意亦単に貴国の援助を得るを以て頼みと為すの外なきなり乞ふ諒察せよ」

余「貴邦事変の大要は過日梁啓超君より寄せられたる書簡に依りて詳にすることを得たり余は今春来貴皇帝の大に俊材を召して各般の改革を断行せらるゝの報に接するや余は一喜一憂したり何が為に喜びしぞ云ふ迄もなく貴国の開明進歩に向ひしを以てなり何が為に憂ひしぞ其改革の余りに急激に失して蹉跌するなきかを恐れたればなり我国の維新決して明治の前両三年の間になされしにはあらず其来るや久し其間幾多の人命を犠牲にし各種の変遷を経過したるの結果なり貴邦今回の事の如きは我邦維新に比較するに未だ其端緒の時代と云ふて可なり況や貴邦は外国の交際を開きしこと我国より古きに拘らず尚依然旧態を存するが如き保守的性質の国情にありながら今春来の改革の急激なる実に余等をして甚だ危険の念を起さしめたり今回の事変既に述べたるが如く其改革の一蹉跌に過ぎざれば決して屈すべきにあらざれども――」

康「人各〃同一の意見を持するとは云ひ難し然れども要するに皇帝にあらざれば改革は勿論国の成立覚束なし故に偏に皇帝の安全に在はして復位せられんことを希望す就ては貴国に乞ふ所のものあり董(とう)の兵既に直隷(ちょくれい)以外に逐はれたり袁は内心太后に服する者にあらず喜んで改革を遂ぐるものに賛するものなり故に皇帝の復位を謀るは此時より宜しきはなし貴国此際に処して一臂の力を惜まず太后の勢力を殺ぎ皇帝の復位を計られなば事必ずならん又事成らば貴国の厚恩は弊邦臣民の永く忘れざる所なり」

余「外交の事貴我両国のみにて決し得べきの場合ならばいざ知らず此の如きは列強の態度をも按ぜざるべからず容易に可否を言ふべきの限にあらず然れども此の如きは漫(みだり)に放言せらるゝは宜しからざれども当局若しくは支那問題に深く心を傾くる五六の名士には通じ置かるゝを可とす或る場合に依りては余も紹介の労を取るべし」

康「感謝々々」
其他日常の不便を感ぜらるゝことあらば相応の尽力すべしと告げ彼は其厚意を謝して去る(談話の順序等は記事を簡にせんが為に前後したる場合なきにあらず)
                          (工藤武重『近衛篤麿公』東京大日社蔵版より)

上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」康有為対話録より引用いたしました。

康有為と近衛霞山の対話は西欧列強に対する東洋の位置づけという点で興味深いものがあります。

今日は以上です。