昭和の戦争を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」をベースに見ていますがノモンハン事件については「昭和史1926―1945」の最後にも“ノモンハン事件から学ぶもの”ということで書かれています。
それだけ当時の日本にとっては重大な事件でした。

とりあえず、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」のノモンハン事件についての続きを3月17日に続いて見ていきます。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

結果的には日本側は五万八千九百二十五人が出動して戦死七千七百二十人、戦傷八千六百六十四人、その他を含め計一万九千七百六十八人と、三三パーセントつまり三分の一が死傷しました。

ふつう軍隊は三〇パーセントやられれば潰滅(かいめつ)という感じです。
それほどの大損害を受けたので。

ソ連軍も蒙古軍を含めるとたいへんな死傷者を出していて、二万四千九百九十二人といいますから日本人よりも多いんです。
それで近頃、うわついた評論家など「ノモンハンは日本が勝ったのだ」と言う人が少なくありません。
そりゃ死傷者だけをみれば、日本の兵隊さんが本気になってよくぞ戦ったというところもありますが、結果として国境線は相手の言う通りになったのです。

ハルハ川ではなくノモンハンまで出っぱったところ、ホロンバイル草原までが全部モンゴルの領土になったのですから、日本軍が勝ったなどとても言えません。

ジューコフの指揮のもと、最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるソ連軍に対して、日本軍は銃剣と肉体をもって白兵攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺(さんたん)たる結果となりました。

捜索隊第23連隊長・井置中佐自決、第8国境守備隊長・長谷部中佐自決、歩兵64連隊長・山県大佐孤立自決、野砲13連隊長・伊勢大佐孤立自決、歩兵62連隊長・酒井大佐負傷後送(こうそう)のち自決、元歩兵71連隊長岡本大佐入院中斬殺さる――
といった具合に、日本軍を指揮し最前線で戦った連隊長はほとんど戦死あるいは自決でした。

酒井大佐の「負傷後送のち自決」とは、戦闘状況の訊問の終わったあと、拳銃を置いて出て行かれ責任を取って自決せざるを得なかった、そういう悲劇もありました。

この戦いを指揮した関東軍の作戦参謀が、服部卓四郎中佐と辻政信少佐でした。

服部曰(いわ)く、「失敗の根本原因は、中央と現地部隊との意見の不一致にあると思う。両者それぞれの立場に立って判断したものであり、いずれにも理由は存在する。要は意志不統一のままずるずると拡大につながった点に最大の誤謬(ごびゅう)がある」

また、辻は、「戦争は指導者相互の意志と意志との戦いである。もう少し日本が頑張っていれば、おそらくソ連側から停戦の申し入れがあったであろう。とにかく戦争というものは、意志の強い方が勝つ」
二人とものほほんとしたことを言っていますが、そこからは責任のセの字も読み取れません。
まことにひどい話です。

戦争が終わってから「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。
「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢(じゅんたく)との白熱的衝突である。
国軍伝統の精神威力を発揮せしめ、ソ連軍もまた近代火力戦の効果を発揮せり」

いいですか、こちら側は必勝の信念および旺盛なる攻撃精神でありまして、向こう側は戦車、砲兵、機械化された各機関、十分に潤沢な補給、それが白熱的に衝突したものである、というのが結論で、従って、

「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」

要するに、これからもますます精神力を鍛える必要がある、ついてはもう一つ水準の低い火力戦の能力を向上させたほうがいいことがわかった、というわけです。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から引用いたしました。

この引用部分を見ていくと驕慢と無計画、無責任とその結果としての悲劇というものが見えてくるように思いますが当時と比べて現在はどうなんでしょうね。

今日は以上です。