日露戦争において、明治の武人としての生き方を貫いた横川省三と沖偵介の二人について葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見ていきます。


以下、葦津珍彦氏「武士道(戦闘者の精神)」より


満州の南端旅順で陸海の激戦が展開されているときに、敵地奥深く、満州の北辺、東清鉄道の後方補給路をおびやかして、ハルビン郊外の露と消えた横川省三、沖偵介等の特別任務隊の壮挙は、歴史に明記せらるべきものの一つであろう。


日露戦争では、多くの特別任務隊が編成されたが、横川、沖両烈士の属する隊は、北京で組織された。

開戦の直後、明治三十七年二月十一日の払暁、十二名の隊員が東清鉄道を目ざして北京を出発した。


この十二名の騎馬隊員は、蒙古服を着ており、厳寒の蒙古大平原を縦断して五十余日、ついに東清鉄道の沿線に到達した。

この時期に荒涼たる酷寒の大蒙古平原の縦断を敢行するのは、千辛万苦の旅であった。

目的は露軍の背後の鉄道と電線の破壊にあった。

一行は中途で二班に分かれ、一班は大島与吉を班長としてハイラルに向かい、他の一班は横川省三を班長としてチチハルに向かった。


大島班はハイラル付近で鉄道線路を爆破して、北京に帰還したが、横川班は鉄道の沿線にまで到着しながら、露軍の騎兵パトロールに発見され、横川省三、沖偵介の二人は捕えられ、他の四名は逃亡したが、のちに蒙古の匪賊に襲われて全員一人も帰還せず、悲壮な最期をとげた。


横川、沖の二人はハルビンで軍事裁判を受けて、銃殺された。

銃殺直前に横川が、その娘律子にあてて書いた簡潔な遺書がとどけられたが、それ以外はすべてロシア側の記録が残るのみである。


ロシア側の記録はハルビンやパリの新聞でも報道されたが、いずれも死に臨んで、沈着従容たりし両烈士の言動に感嘆している。

ロシア軍では、このような不敵剛毅の特別任務隊が、遠く北満にまで出没していることを知り、五十中隊の騎兵を増強して守備にあたった。

特別任務の烈士たちは開戦早々にして死んだけれども、まさに一騎当千の威力を示して、敵軍を後方に釘づけにしたというべきであろう。


軍事法廷では、簡略な裁判が行なわれ、ただちに死刑が宣告されたが、二人とも少しも恐れる色なく冷静だった。

裁判長から「なにか申し立てることはないか」と問われたが、二人は「なにもいうことはない」と答えたのみだった。

ロシアの将校たちは、いずれもこの二人の武人らしい風格に強い好感をおぼえた。


上記は葦津珍彦氏「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


横川省三、沖偵介の二人のロシア軍事法廷における沈着従容たる態度は日本人の意気というものを知らしめたものだと思います。


今日は以上です。