昭和十四五年当時の日本はどこに向かおうとしていたのでしょう、泥沼化する戦争とその拡大に不安はなかったのでしょうか。

いつもの様に半藤一利「昭和史1926―1945」から前回11月26日 続きで見ていきます。


以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より


昭和十四年に発表された司法省(今の法務省)の調査によれば、日本国民はしきりにぼやいています。

「戦争はいつまで続くものでしょうか。御上(おかみ)はなんのためにかように人命を犠牲にして、大金を要してまで戦争をなさるるか、私には不思議でなりません」

「大事な人の子を連れていって、幾年も幾年も無駄奉公させられてたまったものではない。焼けつくような熱いところで、飲み水もなく腹をへらして戦争をしているということだ」


漢口は「雀が落ちる」と言われるくらい暑いところなのですが。

「わが軍は漢口から先へ行くつもりか、広い国を先から先へ占領しても後が困るのではないか」

「戦死に際し、戦死して芽出(めで)たしと祝辞をのべたる村民あり、親として芽出たきことなし」


日本の民衆の中には泥沼の戦争への不満、先行きに対する政府への批判が徐々に出はじめるのです。

政府も軍も困って昭和十五年はじめ、気を引き締めるために「日本の戦争目的」をうたい上げます。


「今事変の理想が、わが国肇国(ちょうこく)の精神たる八紘一宇(はっこういちう)の皇道を四海に宣布(せんぷ)する一過程として、まず東亜に日・満・支を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり。

その究極において、世界人類の幸福を目的とし、当面において東洋平和の恒久的確立を目標としていることは、政府のしばしばの声明をまつまでもなく、けだし自明のことである」


これには現在六十五歳以上の人ならば懐かしく思われる言葉がたくさん出てきます。

肇国の精神、八紘一宇、王道楽土、そういえば「東洋平和のためならば、なんで生命(いのち)が惜しかろう」という歌もあったと……。

それほど、日本の国自体も戦争目的があいまいになり、国民の気持ちにはいつまで戦争が続くのかという不安が大きくなっていったのです。


十月二十七日の漢口陥落で日本じゅうで提灯行列が行われた。

その提灯行列の火の流れを三宅坂の上から見ながら、参謀本部の高級課員堀場一雄(ほりばかずお)少佐が手記を残しています。


「漢口陥落して国民狂喜し、祝賀行列は宮城前より三宅坂に亘(わた)り昼夜に充満す。歓呼(かんこ)万歳の声も、戦争指導当局の耳にはいたずらに哀調を留め、旗行列何処へ行くかを危(あや)ぶましむ」


参謀本部の高級参謀が、漢口陥落で万歳の声を聞いているとかえって哀しくなる、旗行列はいいとしても、いったい日本帝国はどこへ行こうというのか、それを危惧するばかりであるというのです。


堀場少佐はのち、戦争拡大に猛反対して前線に飛ばされてしまいます。

そういう良心的な軍人も多々いたのですが、大勢はもはや止めることはできません、蒋介石を相手にせず、なのですから。


となれば、この日中戦争をなんとか解決するために、次の段階へ進まざるを得ない、それは何かといいますと、その中国を後方から援助しているアメリカ・イギリス相手の戦争になるわけです。

まことに本日は情けないお話でした。


上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。


点と線の戦争に先行きの不安を軍人も感じていたということは支那事変という段階では済まなくなっていたということでもあるのでしょう。


因みにこの本は2003年12月に著されたものです。

今日は以上です。