内田良平は帝政ロシアを「露西亜論」で分析しましたが日露戦争に対して世界はどの様な見方をしていたのでしょうか。

レーニンの見方を葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見ていきます。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


日露戦争にさいして、世界の世論は日本に対して好意的なものが多かった。

自由主義者の間にも、社会主義者の間にも日本の勝利を希望したものが多かった。

ロシアではボルシェヴィキのレーニンがそのもっともいちじるしい理論家だった。


幸徳、堺の「平民新聞」は、レーニンの名に言及していない。

かれらはレーニンとは敵対的メンシェヴィキの機関誌だった新「イスクラ」と連絡した。

新「イスクラ」の戦争論は、「平民新聞」のそれと一致している。

それは、「平民新聞」と同じく非戦論であり、一般平和論であったし、開戦後においては「早期和平論」となっていく。

これに対して、レーニンは鋭く対立し、新「イスクラ」に対して、痛烈な罵倒を浴びせかけた。


少しく当時のレーニンの主張を引用しよう。

レーニンは、「旅順港陥落」にさいして論じている。


「旅順は降伏した。この事件は現代史上最大の事件の一つである。」

「しかし、なぜ、そしてどの程度に、旅順の陥落は真に歴史的な破局なのか?

まず第一に目につくのは、戦争の経過におけるこの事件の意義である。

日本人にとっての戦争の主要な目的は達成された。

進歩的な、すすんだアジアは、おくれた、反動的なヨーロッパに、とりかえしのつかない打撃をあたえた。

一〇年まえ、ロシアを先頭とするこの反動的ヨーロッパは、若い日本が中国を壊滅させたことに不安をいだき、日本から勝利の最良の果実を奪いとるために結束した。

ヨーロッパは、旧世界の既成の諸関係と特権、その優先権、アジアの諸国民を搾取するという、長い年月によって神聖化された古来の権利を、まもってきた。

日本が旅順をとりもどしたことは、反動的ヨーロッパ全体にくわえられた打撃である。」


「軍事評論家たちは、旅順の力はセヴァストポーリを六つ合わせたものに等しいといっている。

ところが、イギリスとフランスがいっしょになってセヴァストポーリ一つの占領にまる一年もかかったのに、ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、八ヵ月でこの要塞を占領したのである。

この軍事的打撃はとりかえしのつかないものである。」


「しかし、専制がこうむった軍事的崩壊は、わが国の政治制度全体の破滅の徴候としては、よりいっそう大きな意義を得ている。」


「プロレタリアートは、あらゆるブルジョアジーとブルジョア制度のあらゆる現われとに敵対するものではあるが、このように敵対するからといってプロレタリアートは、ブルジョアジーの歴史的に進歩的な代表者と反動的な代表者とを区別する義務をまぬかれはしない。

だから、革命的な国際社会民主主義のもっとも一貫した断固たる代表者であるフランスのジュール・ゲードとイギリスのハイドマンとが、ロシアの専制を粉砕しつつある日本への同情を率直に表明したことは、まったく当然である。」


「古いブルジョア世界と新しいブルジョア世界との戦争に転化したこの植民地戦争をはじめたのは、ロシアの人民ではなく、ロシアの専制である。

恥ずべき敗北をこうむったのは、ロシアの人民ではなく、専制である。

ロシアの人民は専制の敗北によって利益を得た。

旅順の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。」(『レーニン全集』第八巻)


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


ロシア帝政という古いブルジョア世界と新しいブルジョア世界との戦争という図式でレーニンは日露戦争を捉えていたのでしょうか、ロシア革命を主導するレーニンならではと言えるのかも知れません。


今日は以上です。