内田良平という人物を見て行くとロシア帝国の領土的野心を粉砕するためにロシア革命の必然という捉え方があったように思われます。
そして露西亜という国の国情分析を世に問うたものが「露西亜論」ではなかったのではないでしょうか。
それでは葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回10月30日
に続いて見ていきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
内田良平にあっては、ロシアの革命目的と日本の国家目的との一致こそが重要なのである。
ロシアの満蒙侵略は、専制的ロマノフ王朝の革命抑圧の力を強大ならしめるのみでなく、日本の安全をもおびやかす。
内田の所信によれば、満蒙は本来、中国とはべつであって、革命中国に属すべきでもなく、いわんやロシアの占領すべきところでもない。
人煙まれなる満蒙の天地は、日本国との特殊関係においてその将来を決せられねばならない。
このことは孫文等の中国革命に対する内田の態度より見て明らかである。
内田良平は現実的国利を無視する観念的ロマンティストではない。
しかしかれは、外国の強大なるを恐れて、保守退嬰をこととする事大主義的現実政治家を軽蔑した。
かれの志とするところは、つねに豪壮なる積極主義であり、それは往々にして冒険的ですらあった。
それが、かような文章表現となって示されたのであろう。
内田良平は、当時対露開戦論の前衛的な活動家であった。
補筆
その一
頭山と内田との思想についてもその間に異なるところがないではない(詳しくは、拙論「中華革命とロシア革命」参照)。
しかしその開きは、兆民と秋水の開きよりもはるかに少ない。
頭山は、終生伊藤と親しまなかったが、内田は杉山茂丸の斡旋により伊藤とも接近し、その間に協力関係を結んだ。
しかし頭山が動いた大きな運動では、内田はつねにその戦列の中にあって主要な働きを担当している。
そのニ
この内田「露西亜論」の構想は、やがて三年後の日露戦争において、陸軍の名参謀・明石元次郎の革命援助工作として現実的に行動化された。
明石と内田とは、もともと筑前同郷の同志関係にある。
明石は、フィンランド反抗党と結び、やがて当時の革命勢力の主流たるSR(社会革命党エス・エル)へ働きかけて、1905年革命に少なからぬ影響を及ぼしている。
その行動は、参謀本部への復命書「落花流水」に詳しい。
かれの工作は、民族革命諸党やSRの間で活発であり、当時の社会民主党には、ほとんど及んでいない。
そのためその革命への影響の評価は、史家によってかなりに異なるものがある。
私の評価は、拙著『ロシア革命史話』(新勢力社版)の第一章において論じている。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
「露西亜論」における革命援助という考え方が日露戦争で明石工作として具体的な動きになっていくのは内田良平の意図が大きく影響していたのではないでしょうか。
今日は以上です。