挑発や過剰反応が仕組まれたものとして陰謀があります、盧溝橋事件に陰謀があったのかどうかを今回は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回10月1日
の続きで見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
盧溝橋事件は当然のことながら、東京裁判でとりあげられました。
大体において検察側は、日本軍の無謀なる攻撃、策略的な仕掛けについて糾弾が厳しく、当時、北京駐在武官だったアメリカのバレット大佐も次のように証言しています。
「中国軍に対する日本軍の態度は傲慢で、攻撃的であり、多くの場合、その行動は中国の主権に対する侮辱と、直接の冒瀆(ぼうとく)であったと思う。
私の考えでは、七月初週の、宛平県城付近で行われた日本軍の夜間演習は、挑発的なものであった」
日本側は、牟田口さんはじめ、当時まだ生き残っていた関係者がこれに対し、最初の一発は中国軍が過(あやま)って撃ち込んだ可能性があるとしても、二度目のものは明らかに、このまま治(おさ)まっては困る中国の抗日派学生か、あるいは共産分子の仕業(しわざ)だとして、
「これは、中国学生か、共産分子らしいとの風聞(ふうぶん)を耳にした。
いずれにせよ、日中両軍の衝突を誘発せんとする第三者の陰謀があったように考えられる」と抗弁しました。
実際、現在でも多くの日本人は、共産党員と北京大学の学生が密かに組んで、中国共産党の指導のもと、日本と国民党両方に弾丸を撃ち込んで戦争をさせたと信じているようです。
当時、北京にいた人によりますと、この夜、学生たちが爆竹を鳴らしたりデモをかけたりさまざまなことが行われたのは確かなようです。
一つ面白いことを付け加えておきますと、次のような話もあるのです。
東京裁判で陸軍の裏切り者として糾弾された元陸軍少将の田中隆吉――上海事変で、愛人の川島芳子を使って中国人に金を渡し、日本人のお坊さんを殺させたとんでもない曲者(くせもの)です――が、戦後の手記『裁かれる歴史』で変なことを書いています。
彼の同僚の茂川秀和少佐が盧溝橋事件翌日の七月八日、天津の芙蓉館の一室でこう語ったというのです。
「あの発砲をしたのは共産系の学生ですよ。
ちょうどあの晩、盧溝橋を隔てて、日本軍の一個大隊と中国側の一団が各々夜間演習をしていたので、これを知った共産系の学生が双方に向かって発砲し、日華両軍の衝突を引き起こさせたのです」
これを聞いた田中中佐は、茂川少佐が常々、北京の共産系の学生と親交があることを思いつき、まさかとは思いながら、
「やらせた元凶は君なんだろう」と聞くと、茂川少佐は顔を赤らめてこれを肯定した、というのです……となると、またしても日本陸軍の謀略ということになるんですが、とにかく田中隆吉という軍人は信用ならない人ですからね。
それに当の茂川少佐が戦後になってインタビューに答えて、「あれは面倒くさいからそうだと言ったまで」と否定しています。
何が裏側で起きているのか、何がこの事態を引き起こさせたのか、まさに「運命の一発」といわれる所以ですが、さまざまな謀略や悪感情、互いの不信の念が絡みあっていて、何かがあればやろうという状態ではあったんですね。
日本の内地でも先に話しましたように「どうか戦争が起きませんように」と作家が願うような空気であり、火をつければバアッと燃え上がる情勢だったということです。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
陰謀があったのか否かは解りませんが衝突を回避する手段はあったのではないでしょうか、挑発に乗じてという思惑があったのかも知れませんが戦争というリスクに対しては、どの様に捉えていたのでしょうね。
今日は以上です。