明治期の日露関係を前回までは非戦論の立場を見て来ましたが今回は主戦論という立場から内田良平という人物にスポットを当てたいと思います。

いつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から前回9月25日続きで見ていきます。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


明治三十四年、幸徳秋水は非戦論の立場で、有名な「帝国主義」論を出版して社会の注目をひいた。

これと同じ年に黒竜会の内田良平の「露西亜論」が出て、これはもっとも強烈な主戦論を強調した。


内田の著書は、はじめ「露西亜亡国論」として書かれたが、政府検閲当局が、非戦論よりも主戦論に対してきびしい警戒をしていたので、印刷製本中に発売禁止、没収されてしまった。

黒竜会では当局に抗議、交渉の結果、不穏の部分を削除修正し題名を「露西亜論」と改めて出版することにした。


幸徳と内田のこの二つの書は、当時の世論の両極を端的に示すものであり、日本の左右両極思想の対決を見る意味深い文献であると思う。

幸徳は中江兆民門下であり、内田は頭山満門下といってもいい。

しかし中江と頭山の世代にまでさかのぼれば、そこには明白な対決点を見出しがい。

すでに本文で書いてきたように、頭山と中江とでは意思あい通じ一致するところはあっても、明白な対決を見出すことはむしろ無理である。


ところが幸徳と内田の論には、明白に両極の思想としての鋭い対決が表明されている。

それゆえにこの両者の対照は、とくに注目に価するわけである。

幸徳の著は、いまでは岩波文庫等でも復刻され、ひろく一般に知られているのであらためて解説するまでもあるまい。


ここには内田の「露西亜論」を紹介する。

内田は、当時すでに朝鮮問題で勇名をあげ、中国革命の孫文などとも行動を共にして奔走していたが、義和団事件の直後からロシア問題への関心を強めた。

行動力を特徴とする内田は、建設中のシベリア鉄道をみずから実地探査するためにウラジオからペトログラードまでの間を、徒歩旅行で往復した。


帰京して明治三十三年に黒竜会を創立した。

ときに二十七、八歳の青年志士であった。

その「露西亜論」は、当時の対露強硬派ばかりでなく、広くジャーナリズムにもショックを与えたものであるが、今日において残存するものがきわめて少ないので、いささか長文にわたるが、その内容について、解説していくことにする。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


次回から内田良平の「露西亜論」を見ていきます、内田良平という人物を通してみるロシアはどんな姿に見えたのでしょうか。


今日は以上です。