歴史にあの時、こうしていればとか、「もしも」ということが結構あるものですが盧溝橋事件の場合はどうだったのでしょうか。
半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回9月24日
の続きを見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
すなわち十日朝、一木少佐の第三大隊に木原義雄少佐が指揮する第一大隊を加え、中国軍主力が配置されていると思われる宛平県城(えんぺいけんじょう)に向かって、一度後退したはずの軍がふたたび前進をはじめました。
そして午後四時頃、今度は明らかにその日本軍に向けて、数発の小銃弾がぶち込まれてきました。
指揮所で報告を受けた牟田口連隊長は「やっぱり敵は、協定を守るつもりはない」と強引に第一大隊・第三大隊に攻撃命令を出しました。
少しの躊躇もありません。
そこへ河辺旅団長がやって来て、「また独断命令か!」と言ったかはわかりませんが、ものすごい形相で睨みつけました。
牟田口も強気の人なのでぐっと睨み返します。
ここでまたまた歴史に「もし」はないとはいえ、その時「なんということをするか、直ちに命令を取り消せ、ばかもん!」やっていたら、従わざるを得なかったのですが、なぜか河辺旅団長はひとこともしゃべらなかったというのです。
ただ睨み合ったままでした。
当時の連隊の副官、河野又四郎さんが戦後、この時の異様な状況を手記に書いています。
「旅団長は顔面蒼白、今にも一喝するかと思わるる相貌となった。
両者相対する距離わずかに三メートル。
恐ろしき剣幕に私は圧倒され、
<これは困ったことになった。両者の考え方は相反す。一つは向戦的、他は避戦的、これでは今後が……>と苦渋に満つる思いであった。
/両者睨み合うことわずかニ、三分ではあったが、私には長い長い時間があった。
旅団長は遂に一言も発せず踵(きびす)を返して旅団司令部に引き返された。
日はなお高し」
牟田口連隊長の独断命令を河辺旅団長が無言のまま認可したのです。
部隊は命令に従って攻撃を開始しました。
この瞬間に日中戦争は既定の事実としてはじまり、日本軍は攻撃に次ぐ攻撃で、宛平県城を奪取し、中国軍を完全撃破します。
少し余談になりますが、なぜ牟田口さんがこう無茶というか独断的で野心的であったのか。
この人は、酒にも女にも強い軍人らしい軍人と非常に有名でしたが、実は皇道派と目される人だったのです。
自分では陸軍中央にいて当然のごとく出世街道を歩くはずが、ニ・二六事件後の人事刷新で、戦争の起きていない中国の天津軍などという安穏なところに送られたのは、彼にいわせれば「左遷」であり非常に不満だったのです。
当時四十八歳、何か殊勲を上げて、飛ばされた無念を晴らしたいという思いがまだあったのではないでしょうか。
こういう連隊長であったというのが不運といえば不運なんですね。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
こういうことが戦争につながっていくのが何か不思議な感じがしますが現実にあったことなんですね。
今日は以上です。