中江兆民という思想家を見る上で明治の民権思想と国権意識ということが対立したものでない様に見られます。

民権論者、中江兆民は武士(もののふ)の気風を受け継ぐものとしての意識を持っていたようです。

この辺りのことを、いつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から前回8月7日 続きで見ていきます。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


さきの追慕録で「先生笑って曰く、露国と戦はんと欲す、勝てば即ち大陸に雄張して、以て東洋の平和を支持すべし」といっているのと、まったく同一の意味を書いているにすぎない。

兆民はここで秋水の「一般平和論」が、黷武を非難するのみで、真武の一側面を見ないことに注意をうながし、同意しがたいことを暗示したのである。


この書簡は「一年有半」執筆前のものであるが、兆民は「一年有半」の中で、対露強硬論を主張し、恐露病を難ずる態度にいささかの修正をも加えていない。

かれが声を発することのできなくなってのちも、頭山満に対して、強硬外交の意を訴えたことは、さきに述べたとおりである。


兆民が晩年に対露主戦論者であった事実は一般によく知られている。

だがこの事実をもって、急進的民権論者としての兆民が、晩年になって民権思想の線から逸脱いたかのようにいうのは当たらない。


それは日本の自由民権思想についての無理解を示す者である。

日本の自由民権思想史は、維新にさいしての尊攘運動、征韓論、民選議院の建白を通じて、つねに強烈な国権意識と結びついている。


兆民はこの民権思想の潮流をもっとも正直に、端的に反映したにすぎない。

その青年時代に西郷にあこがれ、明治十年代には玄洋社員とともに大陸雄飛の事を謀り、二十年代には、屈辱条約反対を叫び、終始して国権の雄張を念とした。


そのかれが三国干渉後の明治三十年代に、対露一戦を主張したのは怪しむにたらない。

その説の是非好悪の評はべつとしても、かれの志は生涯をつらぬいて変わりはない。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


今日は以上です。