日本が米国や連合国との戦争への道を歩むことになる事件が盧溝橋事件ですが、中国国内で抗日のための動きがあり、そのキッカケとなったのが「西安事件」です。


それでは、いつもの様に半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回8月6日続きで見ていきます。


以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より


今日は昭和十二年(1937)の盧溝橋事件を中心に話します。

といっても、まず昭和十一年に少し戻ります。

実は海軍のほうでも昭和十一年は、その年の十二月三十一日をもって軍縮条約をすべて廃棄し、いわゆる「naval holiday」(海軍の休日)、アメリカもイギリスも軍艦を造らないという非常に穏やかな時代が終わり、建艦(けんかん)競争=軍艦を造る競争がはじまる、つまり敵対意識が大きくなりはじめ、対英米戦争への道が踏み出された大事な年でもあるのです。


ただ今日はそれをはずして、次回にまとめて海軍について話すことにします。


その昭和十一年に大事なことが中国で起こりました。

何度も話したように、中国は蒋介石の国民政府軍と延安にいた毛沢東の中国共産党軍いわゆる紅軍(こうぐん)とが鍔迫(つばぜ)り合いの権力闘争をずっとやっていたのですが、昭和十一年の終わり頃、毛沢東、周恩来その他の人たちが

「内戦を続けていたのでは、日本帝国主義に乗ぜられるばかりである。

むしろ抗日民族統一戦線を結成し、一緒になって日本にあたるべきだ」と方針を改めます。


そこで共産軍が、国民政府軍の一頭領である張学良に話を持ち掛けました。

張学良は、前にも出てきましたが、張作霖の息子で満州の大軍閥だったのですが、日本に追われて中国本土に逃げてきて蒋介石の国民政府軍に加わり、部隊を指揮して日本軍に対抗すべく着々と準備をしていました。


その折に共産党からそういう話が持ち掛けられ、「中国のためには非常にいいことだから」と賛成し、裏切り行為に出る。

どういう行為かというと、中国共産党との戦いを控えはじめたのです。


そこで怒った国民党委員長の蒋介石が十二月、張学良が軍を布(し)いていた西安へ大いに督促せねばならないと飛んできました。

その蒋介石を、逆に張学良軍が襲撃し、山上に追い込んで軟禁してしまったのです。

これを「西安事件」といいます。


上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

今日は以上です。