昭和史を見ていくと思惑が先行してしまったような場合が見受けられます、二・二六事件はどうだったのでしょう。
いつもの様に半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回6月11日
の続きを見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
いずれにしろ、二・二六事件の基本には宮城占拠計画があり、それが一番大事な仕事だったのです。
が、大高少尉と中橋中尉が拳銃を抜き合って互いに睨み合ったところでお終いになり、いつの間にか中橋中尉その人は宮城から出て行ってしまって反乱軍の将校たちと合流し、中隊長がいなくなった中橋中隊の約百名は、はじめから宮城を守っていた部隊に組み入れられて「坂下門を守れ」などといわれる始末で、今泉義道少尉などは
「自分たちが反乱軍に回ったのかよくわからないうちに事件が推移していった」というように語っていました。
つまり最大の狙いである宮城占拠はならず、しかも、理解者と思い込んでいた天皇陛下は自分たちに対してまるで同情的でもなかったことが間もなくわかりはじめるのです。
もし宮城占拠に成功していれば、事態は大きく変わったと思うのです。
それこそ期待の皇道派の真崎甚三郎、荒木貞夫大将らが三銭切手を手に貼って宮城にやって来る、天皇のもっとも側にいる本庄繁侍従武官長も味方だし、さらに軍事調査部長の山下奉文(やましたともゆき)少将もやって来るでしょう。
陸軍次官古荘幹郎(ふるしょうもとお)、陸大校長小畑敏四郎、軍事課長村上啓作、もちろん山口一太郎大尉も入城してくることでしょう。
形勢観望(けいせいかんぼう)していた連中も馳せ参じてきます。
そしてクーデタの成功で、真崎を総理大臣とする軍事政権が成り、日本改造計画がうまくいくはずだった、しかし事態はそうは進まず、わけがわからなくなってしまったのです。
警視庁を占拠している四百人はぼーっと一日を過ごし、そのうち将校は首相官邸に集まるよう命令があって集合したりするわけですが、昼頃までに事件は「失敗」と確定し、あとはどうすれば収拾できるかという状況になっていました。
陸軍省には主な人間が次々に集められ、今後どうすべきか、この決起部隊を穏やかに引き取らせる方法はないものかと論議します。
また岡田首相は死んだと思われていますから、内閣はどうなるものかも方々で論議されるというごちゃごちゃの状況のうちに、陸軍は、苦肉の策と言ってもいいでしょうが、真崎甚三郎大将と荒木貞夫大将が中心になって――二人とも黒幕と思われていますから、冷たい視線を浴びながら――意見をガンガン述べ、その中から「陸軍大臣告示」がつくられたようなのです。
実はそんなものは正式にはつくられなかったという説もありますが。
「決起の趣旨については天聴(てんちょう)に達せられあり。
諸子(しょし)の行動は国体顕現(けんげん)の至情(しじょう)に基づくものと認(みと)む」
ともかく、こうした趣旨のものが決起部隊に伝えられたのは午後三時頃でした。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
今日は以上です。