明治の思想潮流を見ていく中で不平等条約の改正という課題に対して当時の人たちが“どの様に対した”のか、を知ることは現代的な意味がある様に思います。

右翼、左翼の源流をも、うかがわれるのではないでしょうか。


それでは、いつものように葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回5月22 続きで見ていきます。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


このときに、中江兆民門下の書生であった幸徳秋水は、その日記に西野の「至誠至忠の情」を絶賛して感動的な文章や詩を書き残している(詳しくは塩田庄兵衛編『幸徳秋水の日記と書簡』参照)。


このころの秋水は、いまだ独自の思想があったわけではなく、ただ兆民先生に心酔しきった文学青年にすぎない。


かれが忠烈の士・西野文太郎を追悼した感激の文章は、いかにも珍しい。

秋水の思想を論ずる資料として見るべきものではあるまいが、それはむしろ、その師兆民周辺の気流を間接的に反映しているように思われる。


ちかごろ森有礼を大変な進歩思想家のようにいう人があるけれども、かれは極端な欧化主義の典型的な専制政治家である(大久保直系の薩閥出身で、長藩の伊藤博文に信任されて登用され、公家の重鎮岩倉具視と親近)。


かれは政府内において、もっとも洋学知識ある民権党抑圧論者として有力であり、民権派に敵視された。

明治二十年前後の思想史においては、政府の欧化貴族主義とこれに反発する在野民権主義の対立的意味は、いちじるしく重い。


急進的民権主義の戦列の中にあった兆民の周辺が、専制的な欧化主義者・森有礼に鋭い反発を感じ、むしろ国粋派の西野文太郎に切なる同情を感じたとしても、けっして不自然ではなかった。

そこに明治二十年代の思想潮流の一つの消息を見ることができる。


頭山満等の玄洋社が、国会開設とともに、不平等条約の改正を熱望してきたことは、すでに前段で述べたとおりである。

それゆえにかれらは、藩閥欧化政府が、屈辱的な条約改正政策の道をとったときに、もっとも激しい反発を示した。


伊藤内閣の井上外相時代から、黒田内閣の大隈外相時代にいたるまで、屈辱条約反対運動の戦列の中で、玄洋社は、もっとも強硬な戦闘者として注目された。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


今日は以上です。