明治の不平等条約に対して中江兆民がどの様に見ていたのか、を今日は見ていこうと思います。


それでは、いつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から4月24日 続きで見ていきます。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


大隈条約反対についても兆民の熱意がいささかもおとろえなかったのは、かれの書き残した数ある論説が明示するところである。

かればかりではない、かれと共に自由党の急進主義的闘将と認められた大井憲太郎なども、熱烈な反政府運動の戦列の中にあって、玄洋社員と深く結び付いた。


兆民の当時の条約改正論を読めば、欧化主義反対の兆民の心理と論理とが、あざやかに展開されている。

かれは維新前の外人渡来と攘夷思想について述べる。


然るに我邦人は彼等胸中隠然侵略の謀を包持し在りと考へ、是に於て稀突(きとつ)無謀の壮士は直に是れ公然の讐敵なりと見做し、一人にても斬殺して以って報国の義を伸べんと思惟し、都鄙(とひ)到る処赤髯の人物を見掛さへすれば、矢庭(やにわ)に刀を抜き撃殺して少しも顧憚(こたん)すること無かりし、


武州生麦の事件、泉州境の事件、皆な此筋合の出来事なり、此輩の行為は固より暴なりと雖も、彼れ外人は、元来我れより招きたるに非ず、自ら好みて来りたる次第なれば、別に我国に向ふて不平を鳴らす可き謂はれ無し、不平を鳴らさんと欲せば彼れは唯石炭を焚き帆を揚げて帰り去らんのみ、


招かざる主人の家に来り、其待遇の悪しきを怒らば、速に帰去るこそ尋常普通適当恰好の手続と謂ふ可けれ、


且つ彼等が他の亜細亜諸国に於ける先例を見るに、一も正々義々仁々慈々の好証跡は見認む可からずして、或は銃砲を用ひ、或は宗旨を用ひ、或は阿芙蓉(あふよう)を用ひ、都(すべ)て真の文明社会より排斥し去る可き腕力の一手段もて、自己飽く無きの慾を充さんと務めし事歴に過ぎずして、先輩国が後輩国に於ける有道長者の措置としては絶えて有ること無し、


然れば我邦人士が苟(いやしく)も赤髯緑眼の人を見れば、皆虎心狼腸の啖人鬼(たんじんき)と認定して、直に腰間の秋水に是れ愬(うった)へしは必ずしも謂れ無きに非ずして、丸で暴人の行為とは判定す可からず。


然るに彼れ外人は、石炭を焚き帆を揚げて急に帰り去ることを為さずして、侵略の野心に使はれたるか、貿易の利念に駆られたるかは未だ判ず可からざるも、兎(と)に角(かく)剛情に我邦に留まることと成れり(「兆民文集」所収、治外法権の撤去)。


このような攘夷時代には、日本としても、治外法権区域を限っておかねば、外人が斬られて日本政府が償金をとられる恐れもあったし、外人としても日本の治安に不安があったであろう。


しかし世情は一変して欧化主義時代となった。

治外法権を撤去しても、外人法官採用などしなくとも、外人になんの不安もあるはずがない。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


難しい表現や文字があって読み難いかも知れませんが西洋諸国のアジア侵略に対する懸念というものを見ることが出来る様に思います。


今日は以上です。