二・二六事件を通して昭和史を見ていく中で当時の問題を後検証することも役に立つのではないでしょうか。
それでは半藤一利氏の「昭和史1926―1945」を4月16日
の続きで見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
ということは、天皇はこの事件を、耳に入った瞬間から「陸軍の反乱である。従って軍事問題であって内政問題ではない、大元帥として対処すべきだ」と考えたに違いないんです。
つまり事件は軍の統帥の問題であると。
そして、こういう事件が起きました、と本庄繁が報告する前に、「とにかく早く事件を終息させよ、禍(わざわい)を転じて福となせ」と言った。
つまり「よくやった」などの言葉は当然あり得ませんが、大元帥として「事件を早く抑えろ」と命じたのですね。
この天皇の最初のひと言から、この事件は、青年将校たちの思う方向へは動いていかなくなるわけです。
さらに本庄繁侍従武官長が宮中に入るとほぼ前後して、宮内大臣の湯浅倉平、侍従次長の広幡忠隆、内大臣秘書官長の木戸幸一の三人が宮中に集まって協議を行いました。
「反乱軍をすみやかに鎮圧せよとの命令が陛下より下された。
この方向で事件を抑えよう。
そのためには、岡田首相がやられたということゆえ内閣総辞職ですぐに暫定内閣が設置されるべきだが、これは内政問題ではなく軍事問題である。
大元帥命令によって、そのような仮の内閣は何があっても置かない」と決めました。
三人がなぜ暫定内閣は置かないという見方をしたのかは興味深い問題なのですが、とにかくそれで一致して、午前七時に湯浅宮内大臣が天皇に上奏すると、天皇は「私もそのように考えていた」と同意しました。
この二つ――つまり天皇が早く事件を終息させよと言うほど怒ったこと、そして暫定内閣はつくらず、とにかく天皇の命令によって事件をおさめるという方針が、二・二六事件が青年将校たちのもくろみ通り――真崎甚三郎を首班とする暫定内閣をつくり、軍部主導による国家改造に突き進む――には進まないことを決定づけた、
つまり事件の起きた数時間後にはすでに決起の「失敗」が決定していた、と言ってもいいのです。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
今日は以上です。