民権と国権と言うと相反するように捉えがちですが、明治期の民権運動を見ていくことで少なくとも対立する概念でないことを参考になれば今後の日本のありかたの参考にもなる様に思います。
それではいつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回、2月6日
に続いて見ていきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
明治十年西南の役は鎮定されたが、西郷斃れてわずか八ヵ月ののち、政府の実権者大久保利通が、一群の壮士に襲われて斬殺された。
襲撃した島田一郎、長連豪(ちょうれんごう)等連名の斬奸状によれば、かれらが西郷党の残党であり、征韓を主張し、専制政府の民権圧迫を憤るものであることは明らかだった。
政府は新式の国軍を動員して、四方の内乱軍を鎮圧するのに成功した。
しかし政府には民権を圧殺する力もなければ、疾風のごとく突如として襲来するテロを封殺する方法もないことが明らかとなった。
大久保を失った政府は動揺禁じがたく、反政府の民権党は専制政府糾弾の気勢をあげて、政府を威圧した。
このような情勢急迫のために、政府は明治十四年「国会開設」を約して民党の反政府急進論に鎮静をもとめざるをえないようになるのである。
大久保斬らるとの報が福岡に達したとき、頭山は出獄直後のことで、畑に出て農作していたが、この報を聞くと鍬を投げ棄てて、そのまま土佐に急行して板垣の門をたたいた。
このとき頭山は、二十四、五歳の無名の青年にすぎなかったが、前参議板垣は礼を厚くしてこの青年を遇した。
板垣の胸中には、西南の役にことごとく戦没した九州民権家のことがあったであろうし、頭山の背後に越智、武部等の姿を追想したのかもしれない。
とくに頭山の士気烈々たる英風に期待するところがあったのであろう。
板垣は、ねんごろに「いまは武力発動のときでない」として、しきりに民選議院開設の緊急なるを説いた。
この時代には、すでに西郷なく、江藤なく、反政府の首領たりうる者は、板垣のほかになかった。
頭山は土佐に滞留して、この地に集まる各地の民権家と交流し、福岡に民権運動を起こすことを決心して帰った。
土佐から、民権論宣伝の弁士植木枝盛、北川貞彦等を招き、福岡地方で遊説をこころみ、西南役の残党を糾合して、明治十二年、玄洋社を設立した。
箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太、それに頭山満等が、玄洋社初期のリーダーとなった。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
今日は以上です。