組織の中で主導権を握る動きが出て来ることは仕方がないことかも知れませんが、派閥が出来て功名を争うことになると組織本来の目的から逸脱し易いものです。
それでは、いつもの様に半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回11月27日
の続きを見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
ここから、先ほどの「統制派」「皇道派」の分派がはじまりました。
簡単に言えば、統制派の中心が永田鉄山であり、皇道派の中心が小畑敏四郎です。
二人のぶつかり合いは、昭和七年ぐらいからはじまりました。
岡村寧次の日記にあります。
「昭和七年六月、帰京してみると(関東軍にいたので満州から日本に帰ってくると)、すでに部長会議で永田と小畑が激論したの噂を聴く」
「昭和七年七月中旬、小磯(国昭、後の総理大臣)陸軍次官は私に対し、密かに第十六期はまさに陸軍の中堅であるが、今やその分裂の兆候があるのははなはだ遺憾である。
これが調整に当たるべきは君よりほかにいない、大いに努力してくれ、と言われた」
「昭和八年八月、一夕会の下層の人々から永田、小畑の間がようやく険悪になってきたということを洩らされた」
という具合に昭和七年後半から八年にかけて永田と小畑が大喧嘩をはじめます。
どうしてそうなったのか、非常に面白いところですが、統制派、皇道派という言葉からすると、会社などで自分が偉くなりたいため相手の足を引っ張る派閥争い、権力争いを想像するのですが、そうではなく、さすがに陸軍のトップ二人が衝突した根本の原因は、これからの日本はどうあるべきかについての意見の相違だったのです。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
※一夕会:昭和四年(1929)、石原莞爾、東条英機、板垣征四郎ら陸軍佐官クラスの将校たちが結成したグループで、昭和軍閥の誕生を決定づけた。
今日は以上です。