権力と言うのは、それ自体が既に政治的なものであるだけに権力とどう関わるかというのは薩長連合の当事者にとって自らの「生きかた」を問うものであった様に思われます。


それでは葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回、10月24日続いて見ていきます。

以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


だが、かれらの生涯がそれだけに終わったならば、かれらはただ政治権力史上のマキャベリスト的成功者たるにとどまるであろう。


だがかれらは―木戸と西郷とでは、その趣にはいちじるしく異なるところがあるけれども―いずれも政治の計算のなんたるかを知り、権力の法則のなんたるかを知りながらも、あえてその法則の示すままの路線の上に安住しえないものがあった。


ここにかれらの終末の悲劇があり、しかもかれらが後世から「人間」としての同情的印象をもって見られる理由があるように思われる。


薩長連合は、つぎの世代の人々によって引きつがれねばならなかった。

大久保利通―伊藤博文、井上馨、山県有朋―黒田清隆、松方正義等々が、この連合の支柱となった。


この薩長藩閥の間には、最後にいたるまで冷たい不和と対立との潮流はけっして解消しなかったけれども、この連合の外側の敵勢力に対しては強く結盟して、断固と戦った。

それは徳川幕府と戦い、やがて在野民権政党と戦い、慶応・明治から大正にいたるまで(政党政治に権力が移行するまで)、五十余年にわたって日本の政治権力の主流を占めた。


明治時代に、薩摩は主として海軍を固め、長州は陸軍を支配した。

この陸軍と海軍との間には冷たい対決底流がたえなかったが、しかも軍の外側の勢力に対抗するときには、つねにあい連合して断固たる威力を発揮した。


陸海軍における薩長藩閥も、大正時代でその支配権がうすれたものの、陸海の対立と連合の性格を見るときに、それが「軍部」として外側に対するときには、つねに強固なる連合を保ち、その連合の内側では、いつも対決と不信の底流が解消しなかった。


これもまた薩長連合の性格の残影と解せられないであろうか。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。

今日は以上です。