前回 の昭和の戦争は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」からではなく、その関係資料から引用いたしましたが、今日は6月19日の続きで半藤一利氏の昭和史を軸に見ていきます。


6月19日の内容はコチラ を御覧下さい。


以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から


驚いたのは東京の参謀本部です。

「えっ!? 勝っているのになんでやめるんだ? 行け行け」とこれがまた馬鹿みたいに追撃命令を出すんです。


しかし白川さんは断固として動かず「停戦だ、停戦だ」とついに上海事変を収めてしまいました。


結果としては、ものすごい険悪な雰囲気ではじまったジュネーブの国際連盟総会はこれを受けていっぺんに好転し、「そうか、日本はひどいことを考えていたわけじゃないんだ」と一応は見直されまして、非常にうまくいったんですね。


天皇もその報告を心から喜んだようで、鈴木貫太郎侍従長に、「ほんとうに白川はよくやった」と言いました。


さて実際に戦闘を中止するには、中国軍と停戦協定を結んで調印しなければなりません。

その調印式が四月二十九日、ご存じかと思いますが昭和天皇の誕生日、天長節であります。


その日を選んで調印式をすることになりました。

上海北部の公園で行われた調印式のお祝いの会で、ある反日の朝鮮人が手榴弾を投げ、壇上にあった日本側の責任者らをいっぺんに打ち倒し、白川さんはそのせいで死んでしまうという悲劇がありました。

その時に右足を失ったのが駐華公使だった重光葵(まもる)さん、後の外務大臣です。


面白いことに、というよりヘェーと思えるほどに、天皇は『昭和天皇独白録』で上海事変についてはごくていねいに語っています。

白川はじつによくやったと、そしてその死をたいそう悼み、翌年昭和八年の春の一周忌、遺族にと短冊を鈴木侍従長に託し、仏前に捧げました。


短冊には歌が書かれてありました。


をとめらの雛まつる日に戦(いくさ)をばとどめしいさほ思ひ出にけり


三月三日、その殊勲を今もまた思い出しているよ、という歌を天皇自らつくって届けさせた、そういう話が残っています。

『独白録』に詳しいのですが、上海事変を三月三日までにとにかく収めたことはよほど嬉しかったのだろうというのがよくわかります。


上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から引用いたしました。


今日は以上です。