葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」は言葉遣いが解り難い面がある様にも思われますが“言葉や文字そのものが戦闘者の精神につながるもの”ということで見ていただければ、と思います。
それでは、いつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を5月23日
に続いて見ていきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
これから数年後の戊辰の役にさいしては、西郷は京都を発するときには「徳川慶喜を断然死罪」にするとの方針を固めていたが、かれは江戸に到着する前に、寛容政策へと転換してしまった。
このときの転換については、かれを動かしたものとして、静寛院の宮―山岡鉄舟・勝海舟―英国外交官のパークス・サトー等々の作用があり、これに対応した西郷その人の心理変化の跡も、ほぼ明らかなのだが、征長の役のさいの事情は、どうも十分に明らかでない。
ただこの時期に、西郷の長州に対する敵意がうすくなり、幕府への不信が大きくなったことだけは確かである。
それらの事情の諸点について述べてみよう。
西郷の対長州の降伏要求交渉―その中でもとくに五卿引渡しの交渉は、主として筑前藩士の協力のもとに進められた。
筑前と薩摩とは、藩主が親戚でもあり、特殊親近の間にあった。
しかもこの交渉にあたった筑前の藩士たちは、喜多岡勇平、月形洗蔵、筑紫衛、早川養敬等をはじめ、藩内の急進的尊攘派系の士のみであって、長州の尊攘派とも三条等五卿の側近武士とも親近な関係にあった。
これらの筑前藩士の協力によって事を進めていった西郷が、長州に対して好意を感じないまでも、その敵意を弱めるにいたったのは怪しむにたらないと思う。
西郷の書簡には、これらの筑前藩士の活動がかなりに詳しく報ぜられているが、西郷としては、かれらの人物や思想から、強い影響をうけたようなことを明記しているわけではない。
しかしある程度の心理的影響をうけたであろうことは推測される。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
今日は以上です。