今日も、いつも通り葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回3月28日 に続いて見ていきます。
今までは高杉晋作の動きを中心に見て来ましたが、これからは藩の政治的動きを歴史的事実とともに見ていきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より(前回3月28日の続きより)
このような意識と行動との関係は、明治史を通じても見ることができる。
薩長の藩閥政治家は、統一国家に反対したのではない。
統一国家建設に熱心だった。
この藩閥政権に反対して、近代的自由民権を主張した人々の間では、薩長藩閥に対する反感はいちじるしいものがあったけれども、しかもかれらの胸中にも、それぞれの藩閥的な意識が根強い。
土佐こそは新時代建設の主流とならねばならぬ、筑前こそは、自由民権の第二維新の先頭に立たねばならない、東北こそは――というような競争意識が、かれらの行動に情熱を与えた側面には、無視しがたいものがある。
かくして近代的統一国家ができあがっていく事実が固まるとともに、藩閥意識も郷土意識も影がうすれてきたのであるが、それらの意識を、ただ形式論理的に近代統一国家意識の反対的な意識としてのみ割り切ったのでは、歴史における人間の行動と意識との関係は理解されないであろう。
人間の行動は、しばしば、かれの意識が予想もしなかったような歴史的成果を生み出すものである。
しかしながら、歴史は人間の行動を通じてのみ創造されるものであり、その行動を生み出すありのままなる意識を無視したのでは、けっして生き生きと理解されることはない。
幕末の文久・元治(一八六一~六四年)の政局で、指導権を競ってあい対決していた薩長二藩が連合し同盟するにいたったのは、慶応二(一八六六)年正月のことであった。
この連合が成立すると、わずかに一年余にして江戸幕府は倒されてしまった。
薩長二藩の指導者の間には、相互に敵対と不信の心理の消しがたいものがあったが、かれらは政治的理性をもって連合同盟を決断した。
その威力には決定的なものがあった。
その連合の威力は、明治の新政権を樹立した。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
今日は以上です。