今、テレビで龍馬伝が放送されていることから坂本龍馬に関する書籍などが出回っています。

坂本龍馬と高杉晋作は接点もあって、高杉晋作にもスポットが当たってもよい様に思われますが高杉晋作というのは一般的には解り難いタイプでもあった様です。


いつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を見ていきます。

前回の内容はコチラ を御覧下さい、今回はこの続きになります。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


かれは個人的気質からしても、京都・江戸などでの政治駈引きの空気を好まなかったらしい。

高杉の文書や伝記を見ていると、かれみずからも感情に激して、しばしば慷慨激越の論に熱中するが、その感情がひとたび鎮まったときに、他人が慷慨の議論をしているのを聞くと、すこぶる不快に感じたらしい。


かれがしばしば豪放な放蕩生活をしたことは有名であるが、ひとたび感ずるところあってみずから酒色を遠ざけたときに、他人が酒色に親しんでいるのを見ると腹が立つし、軽蔑したくなるのである。


どう弁護しても君子の型の中にははいらない。

だがそれだけに直情径行であり、かれの言葉には、そのときその場でのありのままなる実感が鮮かに表れていて印象的である。


かれは、大地から足の浮きあがったような天下の論になじめないものを感ずる。

かれは、なにものよりも「毛利家恩古の臣」としての意識に強くひかれるのである。


防長二国に割拠して、この地に堅固不抜の実力を養わねばならぬ。

それなくしては天下に雄飛することはできぬ。

この防長二国の実力強化を緊急任務と信じている。


この緊急任務を急がずして、公家や諸藩の間を飛びあるいて、高等政策の議論をしている同志たちに、ついていけないものを感ずる。

文久三年の春、京都の政局は、日とともに繁忙となってくるころ、かれは京都を去って帰郷した。


文久三年の四月から六月、京都では石清水の行幸から、攘夷期限についての朝幕間の緊張した政治交渉が展開されていた。

長州では馬関海峡で、米船砲撃が始まり、ついでフランス、オランダ、米国の艦船との戦いが始まる。


このもっとも繁忙な時期に、かれは妻と妹とともに故郷の松本に潜居していた。

やがて藩の召命によって、かれは馬関に出て奇兵隊の編成と訓練とに熱中する。

これこそかれの本願ともいうべき課題であった。


かれは、防長の実力強化の任務に、全精魂をかたむけて取り組んだ。

かくして、京都における八月の政変―長州藩を中心とする尊攘派に対して、大弾圧の下されたクーデターのさいには、かれは中央政局の場から遠くはなれて、奇兵隊の実兵訓練に没頭していた。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


龍馬と晋作がこの後、歴史上で交差することになるのですが、もし二人がもう少し長生きしていれば、という思いは誰もが感じるところでしょう。


以上です。