一週間のうち、土曜、日曜日は「このブログ」のタイトルとはかけ離れた視点で更新しています。
この意図は「世の中の転変」の中で自己の考えを鍛え定めてどう生きるか、また世の中の動きに振り回されず、その先を見据えた対応するには、という問題意識からこの土、日雑感を更新しています。
それではいつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を紹介・引用させていただきます。
前回分はコチラを御覧下さい、今回はその続きです。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
伊藤や志道聞多は、攘夷論から開国論へ急転直下の転向を断行し、やがて明治の日本を、欧化主義でひきずっていく指導力となっていく。
すさまじい転回の時代だった。
高杉は、伊藤、井上の開国論に同意して、馬関の開港などを策し、その政策的意見では、むしろ後進者たる伊藤、井上の意見に影響されたところが少なくない。
かれが慶応三年に死なないで、なお十余年間生きつづけたとして、はたして鹿鳴館時代に、伊藤、井上とともに欧化主義者となったかどうか、これは断定しがたい仮説問題ではあるが、いささか興味がある。
それはさておき、この外人襲撃、外国公館放火事件の直接の動機が、少なくとも高杉晋作にあっては「長州藩の恥辱をそそぐ―長州藩の面目を立てる」という点に、重点があったことに注目しながら、その後の高杉の行動と意識とを見ていくことにする。
文久年間、長州は京都を拠点として、政治的発言力をいちじるしく強めた。
周布政之助、桂小五郎、久坂玄瑞など、高杉の親しい同志たちが活動した。
天下の浪人たちは、長州藩を中心に結集し、慷慨の主張をもって公家にせまり、政局は多端となった。
天下の尊攘派の人望は、やがて長州一藩に集中するかに見えた。
高杉も、同志たちとともに京都で活動したのだけれども、かれは京都での政治工作には、ほかの同志たちのような熱情の感じがたいものがあったらしい。
かれは前にも述べたように、長州としては、その拠点たる防長二国の富国強兵に全力をそそぐことを急務と考えている。
京都での高等政策的な政治駈引きは、どうも根のない浮いたものに感じられたらしい。
文久二年の秋のころ、かれの書いたものに、つぎのようなものがある。
(いまの志士と称する者たちは)自分の名を他国人に知られたいために、言わぬでもいいことを論じたてて奔走し、虚言を吐き散らせ、勤王の志あるを知られたいため、行かぬでもいい公家のところへ陪臣の身分を忘れて罷り出て議論などしておる。
じつに憎むべきことだ。
こんなことで風俗が移り変わり、少年白面の書生にいたるまで、虚言を吐くことのみを習いおぼえ、実行実心というものが地を払い、目も当てられぬ。
自分もその白面書生の仲間なのかと思えば、愧(は)ずかしい話である―。
まことに痛烈な皮肉である。
尊攘派の青年志士、政論家も、ここでは憎むべき売名、軽薄の偽善者として描かれている。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
幕末の様な思想的対決の激しい時代に自分の考えを定めることの難しさは今の感覚からは想像以上のものがあると思っています。
今回は以上です。
※今日の投稿はアメブロの緊急メンテナンスによって大幅に遅れました。