さて、日曜日の「武士道(戦闘者の精神)」です。
このブログの更新を待っていてくれる方もあることを信じて進めていきたい、と思います。
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を御覧になってください。
今日はこの続きになります。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
この文久時代に、長州藩は、京都と江戸の間の政治交渉を周旋して、中央政局に進出してきた。
長州でははじめ、永井雅楽(うた)が中心になって航海論を提唱していたが、それがはなはだ人気がわるいので、永井雅楽を葬り去って今度はあらためて、急進的な切迫攘夷論で周旋することに転回した。
高杉は、永井雅楽に対して激しく反対したが、かれの主張は
「長州藩主としては、このような政治交渉などに熱中すべきでなく、むしろ防長の故国に割拠して、実力を強化するに努めるべきである」というのであった。
しかし永井は葬られたが、藩主は帰国しないで、今度は切迫攘夷論で奔走することとなった。
当時のことを晋作は、獄中手記の中でつぎのように書いている。
しかるところ(藩主は)御帰国にならないで、ますます政治周旋論がさかんとなり、天下の人は悪口するようになった。
その悪口というのは、長州ははじめは航海論を提唱し、今日にいたっては切迫攘夷論を唱えているが、まったく不信の至りである。
これは定めて天朝へおもねり、天下を惑乱するの術であろう、と。
私は、この風説を聞いてじつに憤懣にたえがたく、長州人が一人ぐらいは、夷人など斬ってその恥辱をそそがねばあいならぬと思い、幸いに同志もあったので横浜行きを思い立った(慶応元年記「野山獄における獄中手記」より)。
というのである。
そのころ他藩の者は、すでにロシア士官を斬り、アメリカ人、イギリス人を斬ってそれぞれに攘夷の熱を示している。
長州は、切迫攘夷などと主張しているが、まったく信じがたいといわれて、どうしても一人ぐらいは外人を斬らないと「長州の面目」が立たないと思い込んだ。
これが高杉が横浜の外人を斬ろうとして計画をたて、それが中止させられて、御殿山の公館を夜襲放火したときの動機なのである。
この事件では、伊藤俊輔、志道聞多(しじもんた・井上馨)、赤根武人等が血盟の同志として行動している。
この赤根武人は、やがて二、三年のちには、さきに述べたように高杉、伊藤等の政敵となり、闘争に敗れて斬罪となる。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
今も昔もテロ行為には違いないのですが、自らが政治的動向をリードしようとする行動がどこに向かって行くのかを注目いただきたいと思います。
今回は以上です。