このブログで武士道を取り上げるのはビジネスと直接に関係はしませんがビジネス以前に動乱期における心の持ち方を日本人の精神と英知である武士道から学ぼうということです。
年末の日曜日ですが、いつものように今日は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回(12月20日)
に引き続いて紹介・引用させていただきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
それから数ヵ月ののち(翌年は万延元年と改元されたが)三月十五日付の晋作の書状には、つぎのようなことが書いてある。
朋友の玄瑞にいったことですが僕は父の戒言もあることだから寅次郎(松陰先生)のために身を失うようなことはできない、と。
玄瑞は―それはもっともだ、自分には父も兄もない、自分は独りで政府役人の罪を正すと申しますので、玄瑞のことは玄瑞にまかせましたが、じつに為君討国賊というのは、この節のことと私も考えたのですが、御戒言もありますこととて、私は差し控えます。
この文書を見ても明らかなとおり、晋作は、その師松陰の悲惨な最期について激しく嘆き怒っているのであるが、とくにかれが、それを「防長の恥辱」と痛感している点に注目したい。
かれは、報仇の情の禁じがたいことをも語っているが、その点についての進退の考えは唯一の知己たり同志たる玄瑞の立場とも、おのずからに異なるものがある。
かれは「父あり君ある者として、わが身のようであって、わが身でない」との立場を固守する。
かれは、あくまでも「毛利家恩古の臣」であり「高杉家嫡子」であるとの特殊の立場から、かれの進退は、久坂などとは同一ではありえないと信じているのである。
前掲の周布政之助への書簡について考えるのであるが、周布と松陰との関係は政見を異にしており、かなり冷たい対決関係にあった。
ところが松陰の死を悼む晋作は、その激嘆の情を周布に対して訴え、周布の将来に対して大きな期待をよせている。
このあたりの心情も注目すべきだろう。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
見方によっては勝手な言い分にも聞こえますが、この辺りが藩と家に縛られた意識が覗けるように思われます。
以上です。