この「武士道(戦闘者の精神)」や昨日の「昭和の戦争」といったブログは土曜日、日曜日に書いていますが本来はこのブログの趣旨とはかなり、かけ離れたものであると思います。


では何のために書いているのか、と言うことですが今現在は“外知恵活用”とは直接的な関わりがなくとも、社会と人間のつながりを見つめていくことでこれからの時代何が価値観として必要なものか、がもし導き出せれば本意とするところです。


ではいつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回 の続きで見ていきます。

以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたします。


橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰等が斬られてから、わずか三、四ヵ月ののちに、井伊は桜田門外で水戸の浪士に斬られてしまう。

井伊が斬られてしまうと、井伊一党の勢力は、槿花一朝の夢と消え去ってしまう。


その後の徳川権力の担当者としては、水戸系の一橋慶喜と越前の松平春嶽の登場をまたねばならない。


井伊の弾圧政治は、ただ一年間の政局不安をつくり出し、徳川一門を分裂させ傷つけたばかりで、徳川権力を守るために、なんのプラスにもならなかった。

世上往々にして、現実政治家としての井伊を高く評価する者があるけれども、それは根拠のない説にすぎない。


よかれ悪しかれ、有能な現実政治家が反対派を弾圧して所信をつらぬく決意をすれば、五年や十年の独裁を強行する程度のことはなしうるものである。


反対派に大弾圧を加えたのちに、三ヵ月や四ヵ月で、みずからが抹殺されるばかりでなく、その政治的後継者も追放され、権力を当の反対派にうばい去られるようでは無能だと評ほかはない。


井伊大老は、大義名分を誤ったというばかりでなく、権力政治家としての計算についても無能だったのである。


しかし、いかに井伊が無能だったにもせよ、安政の大獄が維新史上の重大悲劇であることは疑いない。

それが天下の人心に与えた刺激は痛烈であった。


萩に帰国した高杉晋作は、松陰先生斬罪のことを知り、その激嘆の情を周布政之助にあてて書いている。

安政六年十一月十六日付の書簡の中には、つぎのような意味のことが書いてある。


わが師、松陰の首をついに幕吏の手にかけしよし、これは防長の恥辱、汗顔のいたりで口外もできない。

じつに私どもも師弟の交りを結んだほどのことだから、仇を報いなくては心が安んじない。

しかし父あり君あり、わが身はわが身のごとくであってわが身でない。


自然致し方ないわけで、ただ日夜わが師の影を慕い激嘆するのみ―いまはただ知己は玄瑞(久坂)あるのみ―明廿七日は、わが師の初命日なので、松下塾にて玄瑞とあい会して、わが師の文章でも読むことにしようと約束したようなことです。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用致しました。


井伊大老とその政治的後継者松陰と高杉晋作などの師弟の関係を対比してみると大義とは何かが見えて来るように思われます。


以上です。