今日はいつもの様に昭和の戦争を前回9月12日の続きを書いて行きます。
今回から時代はついに昭和の時代に入り昭和3年6月4日、満州某重大事件と言われていますが張作霖爆殺事件が起こります。
以下は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」からの引用です。
明治44年(1911)、中国では孫文らによって辛亥革命が起こり、清国が倒れて共和制が敷かれます。
その翌年には南京を都として中華民国がつくられました。
この時から中国が、新しい国家として登場し、日本のとるべき政策に大きく影響してくるようになります。
といっても簡単に統一されたわけではなく、方々にいた軍閥がぶつかり合い、国民党軍と戦ったり、また国民党軍内部で勢力争いがあったり、さらに少し後に成立した共産党軍が国民党軍と衝突したりで抗争が絶えず、大正時代に入っても依然として中国は混乱を続けていました。
それも大正9年(1920)くらいになりますと、孫文を大将とする広東軍と蒋介石を大将とする江西軍とが一緒になって「国民政府軍」として大勢力をもち、次から次へと大小の軍閥を叩きつぶして統一へと向っていきました。
その頃、東北地方つまり満州の大軍閥として君臨していたのが張作霖でした。
やがて張作霖の東北軍と国民党軍が対峙しはじめるのですが、日本としては、満州をなんとか勢力下に置きたいために張作霖をうまくおだてて言うことをきくようにしておこうとさまざまな工作をします。
また張作霖も、国民党軍と戦うのに日本軍の後押しを期待しましたから、ここで一種の蜜月時代が少し続きました。
すると張作霖はいい気になって大元帥と自称して北京まで進攻し、日本軍の後ろ盾で北京政府までつくってしまいます。
ところが、威張りだしたこの大元帥がだんだん日本の言うことをきかなくなってきたのです。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」からの引用致しました。
以下は豊田穣 「西園寺公望(下)」より引用いたしました。
張作霖爆殺事件が発生したのは昭和三年六月四日である。
この頃張は、北京において蒋介石の北伐軍主力と決戦しようと考えていたが、日本政府は張が負けると、 蒋の軍隊が山海関を通って満州に攻めて来るおそれありとして、張に奉天に帰るよう警告していた。
一方、関東軍は、満州の実権を手に入れる為には、言うことを聞かなくなって来た張を倒さなければならないとして、ひそかに張の暗殺計画をすすめていた。
六月三日張は特別列車を編成して北京を発ち、京奉線で奉天に向った。
張は重傷を負い、自邸にかつぎこまれたが絶命した。
この爆殺を担当したのは関東軍の高級参謀河本大作大佐で実施に当ったのは独立守備隊の東宮鉄男大尉と朝鮮軍の亀山工兵隊であった。
河本はあらかじめ中国人の浮浪者二名を殺して現場に放置し、これを南方の便衣隊に仕立てるという工作をやったが、日本軍の仕業ではないかという噂は忽ち拡がり、田中内閣は苦境に立った。
上記は豊田穣 「西園寺公望(下)」より引用いたしました。