土、日雑感の日曜日、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」の曜日です。
この武士道というテーマで感じますのは武士道というと“カッコいい”という様な受け取られ方が無きにしもあらずと思います。
確かに自分を第三者にしてみれば“カッコいい”という見方も解らないではありませんがゲームをやっているのでもなく映画を見ているのでもなく生き死にそのものが自分自身に関わっているものです。
現在はいかに生きるかに焦点を当てていますが、その先には死があり生き方を考えるなら死をその帰結としなければなりません。
しかし、生だけを見て死を見ない風潮があるとすればそれは私の意図するところではありません。
それでは葦津珍彦氏の武士道「戦闘者の精神」を引用転載させていただきます。
この本は昭和44年に初刷されています。
4月12日の続きになります。
以下、本文
重成の心中においては、主君秀頼は、かれにあい対して存在する他の人間なのでなくして、すでに重成その人の心中のもっとも貴重なる存在以外のなにものでもない。
重成の本心において義と信ずるものは、当然そのままに、主君秀頼の義でもなくてはならないことになってくる。
君臣水魚の間においては、忠臣の没我的奉公はもとよりであるが、臣からの主君に対する忠諫もまたきびしい。
それは主従一体を信ずる者の間の必然的な理法である。
主君秀頼が、いささか戦いに臆する色あるを見ては、重成は黙止することをえない。
かれは直言している。
生ある者、誰か死を惜しまざらん。
されども義によって死を軽んずるは弓箭(ゆみや)とる身の習いにて候。
一部略
私は、木村重成を忠誠なる武士の見事な一典型だと信ずる。
主君に対して「死を軽んずるは弓箭とる身の習い」としてかくのごとき忠諫をあえてする重成である。
重成にとっては、なにものにも代えがたい主君秀頼に対してすらも、「武士としての死を惜しむなかれ」と切言する精神がある。そのかれが、みずから主君のために死することは、あまりにも当然、自然のことである。
あらためて決断を要するほどのこともなかった。その忠死の姿は、悲壮というようなものでなく、むしろ自然な、もの静かな感じがする。
上記は葦津珍彦氏の武士道「戦闘者の精神」から引用転載いたしました。
いかに生きるかはその死に方を問うことでもあり、死を見つめない生き方はあり得ないと考えています。
死を第三者的な感覚だけで見ている限り、このブログ「武士道(戦闘者の精神)」の本意は理解し難いとも言えるように思います。
以上です。