今週はオバマ大統領一色という感じでしたが、それだけにアメリカ合衆国大統領という地位が世界に与える影響が大きいものであると思います。
それでは今日もおなじみの伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」をいつもの様に皆さんと一緒にみていきましょう。(この本は昭和53年に書かれています)
第三の「達してはその挙ぐるところをみる」の続きですが、前回の分はコチラ
を参照して下さい。前に述べた「奔競の者」などを抜擢していたら、それだけで、もう落第である、とあります。
以下、本文
第四の「窮してはその為さざるところをみる」というのは、困窮した時にいかなる態度を取ったかを観察するのである。
いかなる人も、単調だがやすらかで牧場の牝牛のようにのんびりした人生を命の終りまで続けられるなどということはあり得ない。
どんな人生も、晴れる日もあれば、曇る日もある。
雨もあれば風もある。
しかし、大きくわけてみると「焰の時」と「灰の時」との二つである。
「焰の時」というのは、燃えさかる焰の如く、勢がさかんで、この時は少々無理をしても、大体のことがうまく運ぶ。
ところが、いったん「灰の時」に入ると、何をやってもうまくいかない。
やることなすこと、裏目、裏目とでる。
そんな時は、静かに「灰の時」に没入し、自己に沈潜して、実力を養成する時期なのである。
事実、何をやってもうまくいかぬ時には何もやらぬのが一番いい。
ところが小心者に限って、そういう時にやたらに何事かをやらかして失敗する。
何事かをやっていないと不安でしようがないからだ。
全盛時代、かなりの風格をもった人物が落魄した途端にダボハゼみたいに何にでもとびつき、<あの人が‥‥>と思うような醜態を演ずる。
「灰の時」の心構えができていないからである。
第五の「貧にしてはその取らざるところをみる」というのは、貧乏に対する処しかたである。
万事好調で懐具合もいい時には、人間はあまりオタオタしないし、ボロも出さない。
だが、その同じ人間が、いったん貧乏して尾羽うち枯らすと、一変してダメになる。
背に腹はかえられぬとばかりに、みすみす、邪(よこしま)な金とわかっていても、ついポケットへ入れたくなる。
それを歯をくいしばっても我慢するか、どうかが、人物評価のわかれ道となる。
富豪の河村瑞賢(ずいけん)<江戸前期の海運治水の功労者>から三千両ほどの地所を引出ものにして、姪の婿養子にと望まれた新井白石<学者にして政治家。『折たく柴の記』は有名>は二十二、三の若さだったが、支那霊山の故事をひき、
「無名のころに受けた傷は小さくても、大名を得た場合は傷も大きくなる。富豪の家へ婿入りしたため、あのように偉くなったと、将来、世間からいわれたくない」といってことわった。
貧乏であろうと、あわてることはない。目的をもって生きる。信ずるところに生きる。
修養につとめる。
そこにおのずから積極的な人生の楽しみが生まれてくるのである。
十六世紀のはじめ、日本を訪れたザビエルが驚きと感激の文字を綴っている。
「日本人には、キリスト教国民のもっていない一つの特質がある。これは武士がいかに貧しくとも、その貧しい武士が富裕な人々から富豪と同様に尊敬されていることだ。
彼らは武士、平民を問わず、貧しさを恥と思う者は一人もいない」
以上です。