今週は皆さん長かったように感じられた方も多いのではと思います。
ただ、年明けの割には企業関係者の新年互例会の挨拶などをテレビや新聞で見聞きする限り、景気のせいもあるのでしょうが意気が上がらないという印象を持ちました。
もちろん今年に賭けるという意気込みを持ってスタートされた方もおられることと存じますが政界、財界関係者の気迫に欠ける言葉やパフォーマンスばかりが目立つ人にはウンザリ致します。
こういう時こそ伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」ですね。
前振りが些か強引に過ぎた感もありますが、今週もよろしくお願い致します。(この本は昭和53年に書かれています)
以下、本文
「ジャーナリスト」「宗教家」「名医」の「三人の心友」は何れも幕賓であり、パーソナル・アドバイザーである。
中国では、この幕賓が歴史の重要な役割を演じているが、幕賓を定義してみると、もともと、帝王を非常に好きである。
しかし、毎日、裃(かみしも)をつけて朝廷へ出仕するのは窮屈でかなわない、という一種の浪人的風懐と気骨とをもった人物である。
「浪人的風懐と気骨」とは何か。
伝記作家の小島直記が、その著『無冠の男』<新潮社>の中で明快に指摘している。
「その位にありて、その事を行はざるは尸位素餐(しいそさん)の徒なり。
その位にあらざるも、その事を行ひ、ことに自家の米塩を憂へずして、君国の経綸に志す者は浪人なり。
すなわち、浪人は、政府または人民より頼まるるにあらず。
また一紙半銭の報酬をも得るにあらずして、自ら好んで天下の事にあたる」
のが浪人の真骨頂で、「筆者の名もわからず、表現も古風だが、見事に浪人のポイントを掴んでいる」と小島の評である。
したがって、こういう人物を幕賓として迎えるためには、帝王自体にかなりの魅力がなくてはならない。
逆説的にいえば、いかなる幕賓を何人かかえているか、によって帝王の器量がわかるのである。
中国の古書『六韜三略(りくとうさんりゃく)』に「清白(せいはく)の士は爵禄(しゃくろく)をもって得べからず」とある。
立派な人材を得るためには爵禄を惜しむな。同時に、爵禄などで釣ろうと思ってはいけない。
これが幕賓に対するけじめであり、礼儀である。
以上です。