昨日に引き続いての伊藤 肇「喜怒哀楽の人間学」です。


歳月は人を待たざりとは言いえて妙ですね、人の意思を確かめるが如くに歳月はその歩みを緩めることはありません。

人は断じて行うのみです。


それでは今日も昨日の続きですが今日も皆さんとご一緒にみていきたいと思います。(この本は昭和53年に書かれています)


以下、本文


「名医」がなぜ心友として必要か。

強靭な肉体は強靭な精神を生む。その理非曲直にかかわらず、その状態の多種多様なるにかかわらずである。

では「健康」とはいかなる状態をいくのか。

世界保健機構(WHO)では「七つの条件」を挙げている。


一、何を食べてもうまい。

ニ、よく眠ることができる。

三、すぐに疲れを覚えない。」

四、快い便通がある。

五、風邪ぎみでない。

六、体重がかわらない。

七、毎日が楽しく、明るい。


このうちの一つでも欠けたら、「不健康」ということになるが、トップたる者、「肉体的には健康で、精神的には幸福で、社会的には世のため、人のために役立つことができる状態」を維持しなければならない。

それには、どうしても「名医の心友」が必要となってくる。


「心友」でなくてはならないのは、科学と自然を対象とするが、医学は人間を対象とし、ビッセンシャフト<科学>とともにクニスト<芸術、人扱いのコツをも含めた技術>やフィロソフィー<哲学>が要求されるからである。


近鉄会長の佐伯 勇は「故種田社長は病気がちの人だったが『元気な時でも、ほどほどの能力しかないのに、病気で寝ていながら、何かと会社の仕事に指図するのがいるが、私は絶対にそれをやらない。

病気中は、他の重役たちにまかせて、療養に専念する』といわれた。


たしかにその通りで、人間は元気な時でも往々、誤った判断を下すことがあるのに、ましてや、病気にかかって、肉体的にはもちろん、精神的にも正常でありにくい時に重要な判断を下すことはきわめて危険である」

と述懐しているが、いかなる実力者、名社長といえども、亡くなった日から逆算して、三年間にやったことはすべて失敗である。

それは肉体の衰え、頭の呆けが、どうしても判断を誤らせるからだ。


ある高名な法律家が長寿を全うして亡くなった。

葬儀の席で故人をみとり、死語解剖のメスをとった心友の老教授が会葬者に述べた挨拶を龍角散本舗の藤井康雄が、その著『病気と」仲よくする法』<日経>の中で紹介している。


「故人は生前、高名な弁護士でありながら、思想問題などで弾圧された無名の若い学究の弁護を進んでひき受けられた。そして、多くの人々が故人の高い学識と有能な法廷技術によって救われたのです。

こういう際にも、故人は相手の事情によっては弁護料なども請求されず、調査費用すらも自弁で活動されました。


そかし、晩年になって故人はかわりました。時として、高額な弁護料を請求されて驚かれた方や、かって、あれほど無欲無私だった故人が金銭に異常な執着を示されるのに気づかれた方もおられると思います。

死後、、故人を解剖してみましたところ、脳の部分に著しい老年性の退行変化がみられました。


そのため、人格が一変したかのような印象を与えてものと思います。

申してみれば、故人の脳は人格的には、その持前の立派な能力を生理的な死を迎える何年か前にすでに失っていたものと考えられます。

ご来席の皆様は、その辺の事情をお汲みとりの上、改めて、生前の故人を偲んでご会葬をお願い致します」


人に迷惑をかける前に一線を退くことを教えてもらうためにも「名医の心友」がどうしても必要なのである。



以上です。