今年始めての土、日雑感です。
もちろん、ご紹介するのはおなじみの伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」です。
それでは今年も皆さんとご一緒に見ていきましょう。(この本は昭和53年に書かれています)
前回まで「喜怒哀楽の人間学」について去年の12月28日のブログを見て下さい。
一廉(ひとかど)の人物の陰には必ず偉大な宗教家がついている。
というところで終わっていましたが、今回はその続きになります。
以下、本文
しかし、この宗教家にもホンモノとニセモノとがある。いや、ニセモノのほうが幅をきかせている世の中である。
たとえば、本当の禅坊主はあっけらかんとしているものである。
毎日、きちんと座禅をやっているくせに座禅などやっているようなことは一言もいわずに飄(ひょう)々としている。
それがホンモノである。
ところが、自分が禅僧であることを意識して、いかにも豪放磊落にふるまうのは大体、インチキと思って間違いない、そんなのは、一見、豪放にみえて、裏のほうでは小心翼々として俗世間のことばかり気にしているつまらぬ坊主である。
事実、峨山老漢を師として、禅の深淵を高めた伊庭貞剛などは、生涯を通じて、在家の人々の前では禅を談じたことは一度もなかったし、居士などと称して、わがもの顔に偈(げ)などをひねくったり、ことさららしく禅語を喋(ちょう)々する奴は大嫌いだった。
そういえば、ヒトラーに対するレジスタンス運動で倒れた牧師にして神学者のディトリッヒ・ボンヘッファーは「神の前に、神と共に、神なしに生きる」という名言を遺している。
信仰者の真の生きかたは無神論者のような生きかたである、というのである。
神について、もっともらしいことや、わかったようなことをいう人間は最も神から離れた存在である。
あたかも、人生や恋愛について得々と語るのは、本人の体験の浅薄さを物語っているようなものである。
しかも、それらは自分のことを喋っているにすぎないのだ。
同様に、神について饒舌すぎる連中は、神にことよせて、自分のことを語っているのだ。
明日に続けます。