思いもしなかった、ちょっとしたアドバイスや何気ない一言って嬉しいものですね。
この14日のブログに「ためになる」コメントやメッセージをいただき、改めてありがたさを噛みしめています。
それでは今日も昨日の続きで伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」を皆さんと一緒にみていきましょう。(この本は昭和53年に書かれています)
良ければ昨日、15日のブログに目を通していただければ内容がより分かりやすいと思います。
以下、本文
これだけ具体的かつ核心をついた「編集長心得」をきかされながらも、当座は必ずしも、全面的に納得はできなかった。
だが、師の言は、納得できようができまいが、一切の拒絶反応なしで鵜のみにするのが筆者のいき方なので、この四箇条を愚直の愚の字に徹して守り通した。
その結果、編集長をやめて二年ほどしてから、師のいわれた内容がどんなに深いものであるかが腑に落ちたのである。
師が雑誌の経営を知っておられるはずがない。けれども編集長として、上にたつ人間の原理原則はどうあるべきかを教えられたのである。
そのころの日記をひもといてみたら、真摯な筆致で次のように書きしるしていた。
仏典に「菩提心(ぼだいしん)を発して後、六趣四生に輪廻(りんね)すといえども、その輪廻の因縁、みな菩提の行願(ぎょうがん)となるなり」とある。
仏になりたい、と志を立てても、か弱い人間のことだから、つい、いろいろとあやまちや間違いを起こす。
しかし、一度、志を立てさえすれば、その間違いがかえって向上の因縁になるという意味だそうだ。
師に教えられた原理原則も、そういったものであろう。
完全な実行はなかなかにむつかしい。だが、原理原則を知っているのと知らぬのでは生き方において天地雲泥の差がでてくる。
というのは、原理原則を知っておれば、何かの問題にぶつかった時、ふと立ち止まって、考え、心を整理することができるからだ。
師も「人間の原理的教養の欠落は、必ず、精神力の不振となってあらわれる。これは善悪の区別がハッキリしなくなり、悪に対して弱くなる。弱くなれば、やがて逃避的か迎合的になる」
といっておられるが、原理原則をもたぬ人間は「行動の起爆剤」をもたぬのと同じだから、やがて没落の運命を辿ることは火をみるよりも明らかである。
以上です。