昨日は岩切章太郎の覚悟ということで自ら求めて入るのだ、というところで一区切り付けましたので今日はこの続きです。
それにしても、覚悟という言葉は結構使っている割に本当の覚悟が出来ていないのが現実ですね。
それでは今日も皆さんと一緒に伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」を見ていきましょう。(この本は昭和53年に書かれています)
以下、本文
そこで、まっさきに師の木津無庵を訪ね、一部始終を報告すると、師は静かな口調でさとした。
「仏教は覚悟の宗教だから、しっかり腹がきまったら、何が起ころうと心配はないはずだ。しかし、工夫はしなければならぬ。
一番いい例は医者だ。いかなる名医といえども、自分の子供が重態に陥った時には脈をとる手が乱れる。
それは血のつながりからくる不安が断ちきれぬからだ。しかし赤の他人の医者だったらそういう不安はなくて、工夫だけするから、立派に脈もとれ、病気も治せるのだ。
だから、事を処する場合には『心配はするな、工夫だけせよ』という境地が大事になってくる」
この一言は、難関にぶつかる度に岩切の救いとなった。
岩切は、ありていにいえば、背任罪で監獄につながれるところまで腹を据えていた。それが師の言葉によって、一層、励まされ、何が起ころうと、心配ということは一切しなかった。
そのかわり、懸命に工夫に工夫を重ねて、見事に日向中央銀行を再建した。
仕事を単に金儲けの手段ぐらいにしか考えていない人間には、こんな火中の栗を拾う冒険はやれるわけがない。また、そんな人間がのり込んだところで再建できるわけのものではない。
岩切にとっては「仕事をするということは『生きる』ことと同義語なんだ。悔いなく生きた、という満足感をもって人生を終わるためには、悔いのない仕事をしてゆくしか道はない」ということである。
そういう「人生の原則」が基底にあればこそ「経営の工夫」が生まれてくるのだが、その辺のところをドラッカーはずばりといいきっている。
「事業とは何か、と問われると、たいていの事業家は『営利を目的とする組織』と答えるし、経営学者たちも、ほぼ、これと同じような意見をもっているようである。
しかし、この答は大きな間違いであるばかりでなく、まったく見当外れな答である。
利潤というものは事業の妥当性を検証する一つの基準を提供するだけのものである」
以上です。