今日もいつもの様に土、日雑感でお送りしたいと思います。


人間、誰しも有名、無名はさておき、この人は私の師と言える人を持てばその人生は味わい深いものになると思われますし、もちろん歴史上や海外の人を師と仰ぐケースもあるでしょう。

しかし、やはり自分の傍で自分に対してくれる師は得がたい存在であります。


今日の伊藤 肇「喜怒哀楽の人間学」はこういう師についてのお話です。(この本は昭和53年に書かれています)


それでは今日も皆さんと一緒に見ていきましょう。


以下、本文


師は求めなければ絶対に得られない


だが、求めたからといって、必ずしも得られるものとは限らない。そこには「邂逅」による「奇しき縁」としか説明できない何かがある。

しかも、この「邂逅」には条件がある。必ず人生についての「問い」をもっていることである


「この人生をいかに生くべきか」という決して簡単には解決できない「問い」胸中深く秘めての「邂逅」だからこそ一筋の貫くものがあるだろうし、それが相手の心に響くのである

もっとシビアにいえば、「問い」をもたぬ「邂逅」は単なる「社交」にすぎない。


親鸞<浄土真宗の開山>は師の法然(ほうねん)<浄土宗の開祖>との出会いの喜びを「遭ひ難くして、今、遭うことを得たり。聞き難くして、今、聞くを得たり」

と表現したが、生涯の、どの時期でもいい、自分がさまざまに思い迷っていたとき、

「この人に逢えてよかった」とか「この人に逢うことによって開眼(かいげん)せしめられた」という喜びを抱いている人は大勢いることだろう。


人生は、いってみれば、「邂逅と別離」とに要約される。

そして、「邂逅」によって与えられた一筋の光明が人間形成に決定的な影響を与える。まして「生涯の師」を得た場合においておやだ。



以上です。