昨今は些か才走った小賢しい人間が多い様にも思われます。もう少しドシッとした存在感と人間としての迫力があっても良い様に感じています。
そこで今日は人間の器量について伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」を皆さんと一緒に見ていきましょう(この本は昭和53年に書かれています)
以下、本文
「深沈厚重」と「木鶏」
はじめから「深沈厚重」の魅力など身につくものではない。やはり、牛尾治朗のように挫折し、傷つき、さまざまな人生の紆余曲折を経て成長していくのである。
「荘子」(そうじ)に出てくる「木鶏」の寓話がいい。
紀省子(きせいし)、王ノ為ニ闘鶏ヲ養ウ。十日ニシテ而ウシテ問ウ。
「鶏、巳(よ)キカ」ト。
曰ク「未ダシ。方(まさ)ニ虚憍(きょきょう)ニシテ而ウシテ気ヲ恃(たの)ム」ト。
十日ニシテ叉問ウ。曰ク「未ダシ、猶(なお)、疾視(しつし)シテ而ウシテ気ヲ盛ンニス」ト。
十日ニシテ叉問ウ。曰ク「幾(ちか)シ。鶏、鳴クモノアリトイエドモ、己(すで)ニ変ズルコトナシ。之(これ)ヲ望ムニ木鶏(もっけい)ニ似タリ。其ノ徳全シ。異鶏、敢テ応ズルモノ無ク、反(かえ)ツテ去ラム」ト。
昔、紀省子という闘鶏を飼育する名人が王のために一羽のすぐれた鶏を育てていた。十日ばかりして王が「もう、ぼつぼつどうかね」と催促した。
すると紀は「まだ、いけません。ちょうど、空元気の最中です」と断った。
また、十日ばかりして王がせつくと、「まだ、相手をみると興奮するからいけません」。
さらに十日、待ちあぐねた王が、「いくら何でも、もういいだろう」というと「まだ、ダメです、相手に対して、何がこやつ!というように嵩(かさ)にかかるところがあります」。
それから十日、すっかり、しびれをきらした王に名人がやっとOKを与えた。
「ぼつぼつよろしいでしょう。もう、どんな相手が挑戦してきても、いっこうに平気でございます。多分、いかなる鶏が現れても、応戦せずして皆、退散することでしょう」
蹴合せてみたら、果たして、その通りだった。
この寓話から四つの教訓が汲みとれる。
第一に「競わず」。むやみと余計な競争心をかりたてないこと。
第二に「てらわず」。自分を自分以上にみせようとしないこと。
第三に「瞳を動かさず」。落ちつかぬ態度で、あたりをきょろきょろ見まわさぬこと。
第四、「静かなること木鶏の如し」。木彫の鶏の如く、静かに自己を見つめること。
「深沈厚重」とは「木鶏」の魅力に他ならないのである。
以上です。