私たちは、よく思いやりとか痛みがわかるとかという言葉を使いますが、今日はこの辺りの事情について、おなじみ伊藤 肇「喜怒哀楽の人間学」を皆さんと一緒に見ていきたいと思います。(この本は昭和53年に書かれています)


今までの経過、つながりについては土、日雑感に目を通していただければ幸いです。因みに前回9月7日は長い投獄生活でした。


それでは今日もよろしくお願い致します。


以下、本文


□ 長い闘病生活


十年ほど前、肺癌の疑いで二年間の闘病生活を余儀なくされた壱岐晃才<国民経済研究協会理事長、東京経済大学教授>が述懐したことがある。


「現実に長い病気をやった者でないと、病人の気持ちは絶対にわからぬだろう。

だから、私にいわせれば、病気など一度もやったことのない人を健康な人とは決して思わない。

本当の健康な人というのは、病気にかかってそれを克服した人じゃないですか

『病める貝にのみ真珠は宿る』というアンドレーフの箴言は、一度、病んでみないとわかりませんネ」


たしかにその通りで、吉田兼好などは『徒然草』(つれずれぐさ)の中で、友人に不適当な人間を七種類あげ、その中に「身強き人」を入れている。

あまりにも丈夫な人は友人として不適当だ、という意味である。理由は簡単、思いやりがないからだ。


「完全な健康体だ」という自惚れはしらずしらずのうちに人間を傲慢にする。だから、文芸評論家の亀井勝一郎などは「あまりにも丈夫な人間は真昼だけあって、夕暮れも夜もないようなものだ。彼と話をしていて疲れるのはそのためである。

陰翳(いんえい)の不在は一種の暴力である」とまでいっている。


また、壱岐晃才は入院と同時に「これまで、一度も考えたことのなかった『死』をいきなり鼻さきへつきつけられてとまどった」という。


たしかに肺癌の疑いで病床に呻吟する身は毎日が死との対決である。その日、その日を命のぎりぎりのところで抱きしめて生きているのだ。

いかなる見舞を受けても、いかなる人に慰められても、どうにもなるものではない

死との闘いは所詮(しょせん)、自分ひとりでやるしかないのだ。


人はそこに気づいた時、自分というものは、要するに自分だけなんだという厳しい孤独感に襲われる

そして、今まで、自分でもよく口にし、人から聞かされもした「俺は孤独だ」という台詞が何とも薄っぺらで鼻もちならなくなる。

「孤独、孤独と安っぽくいうな」と開き直りたいような衝動にかられる。

そして、この境地をトコトンまでつきつめていくと、「人間は本来孤独であり、死ぬべき運命にある」という自覚に到達する。


しかし、その自覚は、そのことで悲観的になったり、厭世的になるためではない。逆に「死」は「生」を確認させる。

つまり、死を念頭に置くことによって、自分の「生」が本当の「生」の名に値するかどうかを問うのである。

そこに人間陰翳と、えもいわれぬ魅力がでてくるのだ。



以上です。