誰かの言い草ではありませんが、人間いろいろ会社もいろいろと言えば良い意味なのか悪い意味なのか判然としませんが都合のよさだけが罷り通っているように感じられてなりません


こういう時こそ、先人の語録・叡智に耳を傾けてみたいと思います。

それでは今日も伊藤 肇「喜怒哀楽の人間学」を皆さんと一緒に見ていきましょう。(この本は昭和53年に書かれています)


前回は野村證券の奥村綱雄と電力の鬼、松永安左エ門の邂逅場面でした。

今回はその松永安左エ門の語録を見ていきます。


以下、本文


因みに松永語録を解説しておこう。


□ 長い浪人生活 

浪人になると、自分の非力を否応なしに自覚させられるから、自然と人間も謙虚になり、かって、肩をいからせて都大路をのし歩いたことが何となくうらはずかしくなる。


そして、それが昂じてくると、酒ののみ方までもしょぼくれるが、その中にあって、やせ我慢でもいいからプライドを維持できるようだったら、浪人としてもかなりのものである。


心構えとしては、勝海舟とM・フォン・クリンゲル<ゲーテの畏友>の言葉が参考になる。


「俺など、本来、人が悪いから、ちゃんと世間の相場を踏んでいるよ。あがった相場もいつかはさがる時があるし、さがった相場も、いつかはあがる時があるものさ。

そのあがりさがりの時間も、長くて十年とはかからないよ。だから、自分の相場が下落したとみたら、じっとかがんでおれば、また、あがってくるものだ。


大奸物、大逆人の勝 麟太郎も今では伯爵、勝安房様だからのう。

しかし、今はこの通りいばっていても、また、しばらくすると、老いぼれてしまって、唾のひとつも吐きかけてくれる人もいなくなるだろう。世間の相場は、ま、こんなものさ。

そのあがりさがりの辛抱のできる人が、すなわち、大豪傑だ」<勝海舟>


まことの人は、彼の義務が要請する時と場合においてのみ、世間の舞台に現れねばならぬが、その他では、一個の隠者として、彼の家族の中に、僅かな友人とともに、また彼の書斎の間に、精神の風土に生活しなければならない」<M・フォン・クリンゲル>



今日はここまでとします。