読書の面白さというのは読んでいるうちに自然と気持ちが入ってくることです。

それが著者の狙いでもある訳ですが、面白い本というのは著者と読者の交流が自然と促される様に思います。


今日も伊藤 肇「喜怒哀楽の人間学」を皆さんと一緒に見ていこうと思います。(この本は昭和53年に書かれたものです)



「その生涯において、何度も読み返し得る一冊の本を持つ人は幸せである。さらに数冊を持ち得る人は至福の人である

イントロでも引用したモンテルラン<仏・作家。代表作に戯曲『サンチャゴの聖騎士団長』>の名言だが、筆者は、この『世界の旅』をくり返し、くり返し読んだ。そして、読み返す度毎に新鮮な喜びを味わった。


ところが、反復熟読しているうちに妙な現象が起こった

前に読んだ時には、ひどく心打たれ、のめり込むほどの魅力を感じた章句の一つ一つに、今度はむかっ腹がたってきたのである。


たとえば、こんな調子だった。「老は『年とる』 『老いる』ことに相違ないが、それよりも大切な意味は『なれる』 『練れる』ことである。

老酒といえば、呑めばピリッときて、すぐに酔が出るというような酒ではなく、舌にとろりと油のように熟れた味があって、呑むほどに陶然と快くなり、盃を置けば、ほのぼのと醒めるような酒のことである。


『老大人』というのも、興奮しやすく、しょげやすいというようなものではなく、世故に長(た)けて、容易に喜怒も色に表れず、疾言遽色せぬ成人を意味する」とあれば<何を!>と思い興趣一タビ到ラバ乱酔スベシ。侠情一タビ往カバ狂起スベシ圭角(けいかく)のない青年など、この世に生きている価値はない。若いくせに妙に老成ぶっている奴は鼻もちならない」と喚いた。


また「エマーソン<アメリカの詩人>が英国に趣いて、ワーズワース<英・詩人>を訪ね、談たまたまゲーテ<独・詩人、小説家>に及んだ時、ワーズワースはゲーテを罵倒して『あらゆる種類の姦淫私通に充ち、まるで多くの蠅がその辺を飛ぶようで、どうしても第一篇以上は進んで読むに堪えぬ』といった」という一節にぶつかると、「何をッ!与謝野晶子の『やわ肌の 熱き血汐に 触れもせで さみしからずや 道を説く君』という短歌があるじゃないか。

恋は一切の打算を拝した盲目の恋にこそ命がある。『毒の香 君に炊かせて もろともに 死なば春のかなしき夕べ』とうたった牧水の境地は永遠に理解できぬだろう」と反発し、あげくのはては『世界の旅』を床にたたきつけた。


これを何度もやるものだから、当然、装幀はぼろぼろとなり、とじ糸もきれてしまった。現在、自分自身が単行本を十数冊出す立場となり、出来不出来はあっても、それなりに心血を注いだ本をこんな風に扱われたら、それこそむかっ腹がたって、横っ面の一つも張りとばしてやりたくなるが、そういう師に対する非礼を平然とやってのけたのである。


もともと、「一冊の本」には毒がある。それから悲しみがある。もし、その毒や悲しみにまで触れるほど、身を入れて読まぬというなら、最初から、その本は読まぬほうがましである


強い反発を覚えながら、反発させるものが同時に魅力となって、何時しか、生涯の伴侶となるという関係が、生き身の人間関係だけでなく、人間と書物との間にもたしかにあるいや、むしろ、反発させ、苛立たせ、叱責し、睨みすえるような迫力をもたぬ本などは、一時、それに溺れることはあっても、年輪のふくらみとともに意外に無縁なものになってしまっている。

まして、その頃は、「人生二十年」と教え込まれ、一、二年後には確実に戦場の露と消えねばならぬ運命を担わされていただけに精神的にも鬱屈していたから、一層、反発も激しかった。


ところが幸か、不幸か、敗戦となり、建国大学は閉鎖されて、日本へ引き揚げた。『世界の旅』に対する「対立反発愛着畏敬をそのまま胸中に持ち越してである。



以上です。