私が気分的にゆっくりと更新でき、私自身が楽しみにしているのが土、日雑感で書いている伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」です。
不思議と気持ちが落ち着きます。(この本は昭和53年に書かれています)
それでは今日も皆さんと一緒に見ていきましょう。
「深沈厚重」の魅力とは、いったい、どんな魅力か。
いうなれば深い沼のような魅力である。その前に立つと、ぐいとひき込まれそうな魅力である。無為にして化する魅力である。
西南の役に敗れた西郷は、軍を解散し豊前中津の若い士族六十四人にも帰郷をすすめた。もちろん、隊員一同は帰ることに異存はなかったが、隊長の増田栄太郎だけはただ一人、「踏みとどまる」ことを表明した。
当然、隊員たちは口々に「なぜ君だけは帰らぬのか。われわれは生死を共にすることで郷土を後にしてきた。
それなのに君だけが踏みとどまるというのは約束を破ることになる」つめよると、増田ははらはらと落涙して「君たちは隊員だったから西郷という人を知らない。
自分はたまたま隊長役を引き受けたために、この一軍の軍議にも出た。西郷という人にも接することができた。
あの人に接してしまえば、もはやどうにもならないのだ」といい、西郷の魅力について西郷の魅力について永く中津に語りつたえられた次のような言葉を吐いた。
「かの人はまことに妙である。<西郷さんという人は、まことに不思議な人じゃ>。
一日、かの人に接すれば、一日の愛生ず。三日、かの人に接すれば三日の愛生ず。しかれども予は接するの日を重ね、今や去るべくもあらず。
この上は善悪を超越して、かの人と生死を共にするほかはない」
司馬遼太郎は『翔ぶが如く』の中で、この言葉を解説して「増田栄太郎というこの若者は、西郷の弁舌に打たれたわけでもなく、西郷の文章を多く読んだわけでもなかった。かれは西郷にじかに接しただけのことであり。それでもって骨の髄まで染まるほどに西郷の全体を感じてしまったのである」と感激のペンを走らせている。
呂新吾は「安重深沈なるは、是れ、第一等の資質にして、天下の大難を定むる者はこの人なり。天下の大事を弁ずるはこの人なり」といい、別項では、第一等の大臣として、「寛厚深沈。遠識兼照。福を無形に蔵し、禍を未然に消し、智名勇功なくして、天下、陰にその賜を受く」と規定している。
私心や作意というものが全くない、あたかも人間が日光に浴し、空気を吸い、水を飲みながら、これを意識しないのと同じように、何とはなしに人々を幸福にし、禍はいまだ来たらざるうちに消してしまう。
といって、すごく頭が切れるとか、勇気のある人だとかの評判や華々しい手柄をたてたというようなこともなく、知らず、識らずのうちに人民がそのおかげを受ける。
とにかく、いるのか、いないのか、わからぬような存在でいながら、人民に無事太平を楽しませている。
たしかにこれならば最高の魅力であろう。
以上です。