今週もまた土曜日です。こうして何がしかを書いていると特に時の経過が早く感じられます。
それでは今日も皆さんと一緒に伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」を見ていこうと思います。
「人を見る明」の第四のメルクマールは「修巳冶人」である。
「己を修め、人を治める」と訓(よ)む。
論語に出てくる例のやんちゃな弟子、子路が、君子たるの資格について孔子に質問している。
子路、君子ヲ問ウ。
子曰ク「己ヲ修ムルニ敬(つつしみ)ヲ以テセヨ」
自己の道徳的完成、それが君子たるものの第一の資格である。
しかし、子路は無遠慮に反問する。
斯クノ如キノミカ<たったそれだけのことですか>。
すると、孔子が答える。己ヲ修メテ以テ人ヲ安ンズ。
「人」とは自分に近い範囲の人間、つまり家族隣人である。修養して、徳を身につけて、周囲の人に信頼されることだ。
だが、子路は満足しない。
「斯クノ如キノミカ」と、も一度、反問する。
これに対して、孔子の答は峻烈である。
「己ヲ修メテ以テ百姓ヲ安ンズルハ、堯舜スラ猶、諸(これ)ニ病(なや)ミシモノヲ」
「百姓」とは「農民」の意味ではない。すべての人民である。つまり、為政者として、すべての人民を安定させる。
それが君子すなわち、すぐれた人間の究極の任務である。そして、それは堯舜のようなすぐれた為政者でも困難なことであった、とつけ加えている。
また、孔子は「鳥獣ハ与(とも)ニ群ヲ同ジクスベカラズ。吾(われ)、斯(こ)ノ人ノ徳ト与(とも)ニスルニ非ズシテ、誰ト与ニセン」と教えている。
人間の愛情は人間の相手をもつことによってこそ成立する。その意味では、できるだけ多くの相手に愛情をふりそそぐ方法として、政治はたしかに有力な方法である。
上に立つものは魅力がなくてはならない。
魅力がなければ人はついてこないし、人がついてこなければ仕事はやれない。
その魅力の基本が「修巳冶人」である。
今日は以上です。